いまだ解毒できず | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

針はなんとか引っこ抜いたけど、毒はじわじわとしみ通っていく。

 

この家に居候している、というより、この世に居候している、のではないか。

居候というのは、「他人の家に寄食する者」のことをいう。

ポイントは「他人の家」だな。つまりそれは、本来自分がいるべき、いてもいい場所ではないという意味だ。

それでいうなら、確かに私は居候なのかもしれぬ。

今住んでいる家は夫の名義だし。

(まあ、母だって父の名義の家に住んでるんだがね)

一応現行の民法で定められた法律婚をしているので、私は夫の配偶者である。

つまり、法的な権利があるというわけだ。

(余談だが、事実婚が問題視されるのは、この法的権利が欠如するからである)

だとしたら「居候」ではないのでは?

 

結局これは、私自身が家計に直接寄与してない(つまり稼ぎがない)から「ただ飯食ってるぞ」ということなんだろうと思う。少なくとも母はそう思ってる。

やっかいなのは、私もその価値観を内在化してて、自分のことを「稼ぎもないのに生きている」と思ってしまっているということだ。その負い目を少しでも減らすべく主婦業に精を出しているわけだが。

こういう考え方をしていると、自分のことにお金を使うことがものすごく後ろめたく思えてくる。それは趣味や娯楽だけでなく、衣服の購入とか食べることだとか、健康に関することなど生活全般に関して、「私なんぞにお金を使うのは申し訳ない」という気持ちを抱いてしまう。

 

私を居候呼ばわりする、似たような立場の母は、やれ頭が痛いの腰が痛いのとしょっちゅう病院通いである。早くあの世に逝きたいとぼやくわりには健康に気をつけているんだよなあ。

 

まあ、居候だろうがなんだろうがもういいんだ。私は母のように積極的に長生きできるような行動はとっていないから、そのうちにこの世におさらばできる。それまでは「3杯めをそっと出し」て生きていくしかないのさ。

 

毒がまわってジクジクしているせいか、同じ年頃のお年寄りの言動が気に障る。

なぜこんなふうに同時多発的に似たような状態に陥るのかわからないけど、どっちを向いても高齢者に困らされてしまって、途方に暮れている。

とはいえ。そうだ、「居候」なんだから、最後の最後は知らんぷりしてしまえばいい。何も私が背負い込むことはないのだ。一宿一飯の恩義はあれど、所詮一宿一飯限定だからな。