朗読の目的 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ごく内輪の小さい朗読会に参加した。

高齢者向けのグループ活動をしている人がいて、活性化?のために朗読をやっているとか。

「ちょっと読んでよ」と軽く頼まれて、朗読してきた。

ずっと読んでみたかった夏目漱石の「夢十夜の第一夜」を読んで、わりと満足したんだけども。

 

朗読もそうだし、読み聞かせやおはなしの活動をしていて、時々疑問に思うことがある。

いったい何を目的にするのか、という問題だ。

声に出して本を読むのは、健康によい、という説がある。

そういう目的なら、技術の巧拙はたぶん関係ない。

よく言うのは「うまい下手じゃないんです。読んでみるということが大切」ってこと。

読み聞かせやストーリーテリングも、「子どもに絵本を読んだり、おはなしを語るという行為そのものが重要である」と言われる。

私はそれを、初心者向けのリップサービスだなと思っている。

入り口のハードルを下げて、気軽に参加してもらうためだ。

「うまくできないから無理です」と尻込みしてしまいがちなところを、「大丈夫ですよ。うまい下手じゃなくて、心を込めて読んだり語ったりすること自体が子どものためになるんです」という。

とっかかりはそれでいいと思う。誰だって最初は初心者だし、最初っからうまくできるなんてことはない。とにかく始めることが大事なのだ。

 

しかし。

どこかで技術の向上へ舵を切ることも大事なんじゃないだろうかとも思うのだ。

なぜなら、そういうものは「聞いてくれる人」に向けてするものだから。

子どもに絵本を読んだりおはなしを語ったりするなら、子どもに楽しんでもらうことが必要だろう。

いくら「絵本」や「おはなし」そのものが「いいもの」であるとしても、その伝え方がつたないものであったら、伝わるものも伝わらないんじゃないかと思うからだ。

いつも思うたとえとしては、「良い物、高級なものを相手に送る場合、その包装や渡し方にも気を遣うものなんじゃないですか?」ということ。

世に言う、マナーだとか礼儀ってそういうことなんだと思うのだが。

なぜか読み聞かせやストーリーテリングとなると、たとえ読み方、語り方がつたなくても、心を込めればそれで伝わるという話になってしまう。

 

朗読だって、自分自身の健康法の一つとして行なうなら、そりゃあ技術はたいした問題ではなくなる。

声に出して読めばいいだけなのだから。

でもそこに「観客」の存在を想定するとしたら、やはり技術は必要になってくるのではなかろうか。

 

アマチュア演劇でも似たようなことは思う。

少なくともお金をとって見せるつもりなら、できる限りの努力をするべきなんじゃないのか。

その「できる限り」っていうラインが人それぞれなのであるが。

 

私としては、料金はともかく、時間を使ってその朗読を聞くのだとしたら、それなりのものを聞きたいと思う。

つたなくても一生懸命ならいい、と思えるのは、身内とか関係者くらいまでだろうと思う。

 

これはあくまでも私個人の考え方なので、それを他人に及ぼすのはちょっと躊躇してしまう。

つまり、「あなたの読み方、語り方はつたないので、もっと技術を磨いて欲しい」と言いたいのだが、それを言っても詮無い相手だったり、言うべきではない相手だったりすることが多いのだ。

でも聞かざるを得ない状況になることが多くて、こっそりため息をつくことになる。

 

まあ、ぶっちゃけ「うまい下手じゃないんですよ~」っていうところではあんまりやりたくないなあという気持ちがどうしても消せないんだな。

今は努力の途中だからまだつたない、というならまだいいんだが、努力すらしないとなると、どうぞおうちで一人でやっていてくださいませ、と思ってしまう。

 

子ども相手だからこの程度でいいのだ、むしろ読んでやってるんだからありがたく思え、という気持ちが透けて見える読み聞かせは、密かに腹が立つ。

なんで「密かに」かというと、ご本人は完全なる善意のつもりなのだということがわかっているから。

なんともやるせない。

 

まあでも、なんともいえないな。私だってたいした技量ではないのだから。