「人間らしさ」とは | 10月の蝉

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「らしさ」というとき、それはわりと肯定的な意味で使われるようである。

ちなみに、今手元にある辞書をひいてみたところ、「らしさ」は掲載されていなかった。

「~らしい」という形で、「形容詞を作る」言葉として載せられている。意味は「~にふさわしい」とか「~じみている」。

助動詞となると、形容詞の終止形や語幹、名詞などにくっついて、推測の意味を現すようになる。

とすると「らしさ」と名詞の形にして使うのは、まだ辞書に採用されていない使い方なのかもしれない。

 

ともあれ。

「人間らしい」というふうに言う時、そこにはいい意味が込められている。

思いやりがあるとか、情に篤いとか、理性的であるとか知的であるとか、とにかく、肯定的かつ称賛する方向で使う。

逆に「人でなし」とか、「人間のすることとは思えない」というのは、非道な言動に向けて使う。

 

これに対してずっと、そこはかとない違和感を抱いている。

 

たとえば、残虐非道な犯罪行為があったときに、世間では口を極めて「人間とは思えない」とか「人でなし」とののしるわけだが、むしろそれは、きわめて「人間らしい」行動なのではないか、と思うのである。

人間だからこそ、そこまで徹底して非道なことができるのではなかろうか。

 

ほかの動物を見る限りでは、無用の殺生は行われない。他の個体への攻撃は常に自己防衛のためである。人間からすると、とどめを刺さず手加減しているように見える行動でも、回りまわって己の利益を守るためであったりする。

感情や損得勘定でほかの個体を攻撃したり殺傷したりするのは、おそらく人間だけだと思う。

快楽や興味だけで他の個体を殺すのは、そしてそれがあまり珍しい行動ではないのは、人間だけだと思う。

とすれば、いじめを始めとする他人への暴行傷害などは、きわめて「人間らしい」と言えるのではなかろうか。

あるいは、独善的な善意に基づく他人への過剰な干渉や、プライドと称する感情に左右される言動なども、きわめて人間的である。

 

私は、犯罪が起きたときの周囲の反応に違和感を持ってしまうのである。

「信じられない」はまだわかるけれども、「人間のやることじゃない」とか「人間らしさがない」といった批判を見ると、何を言ってるんだろうと思う。

こんなひどいこと、人間以外の誰ができるというのだろう、と思うのだ。

歴史を見ても、弾圧だの拷問だの侵略だので、どれだけ同じ人間相手にひどいことをやってきたことか。

「沈黙」という映画が公開されるとのことで、テレビでも映像が流れたりする。

私はすぐに目を背けるか、チャンネルを変えてしまう。あまりの絶望で吐き気がしてくるからだ。いや、映画に罪はないんだけども、そこに描かれているようなことは、人間がはるか昔からずっと何度も繰り返してきたことなのだ。

「人間らしさ」といえばこれほど「人間らしい」行動もないだろうと思う。

「神」という概念を生み出したのはいいけれども、今度はそれを使って他人を攻撃し始める。

なぜ神は沈黙しているのかって、そりゃ、神さまなんて存在しないからで、そういうことをひっくるめて、人間は他の人間を攻撃する。

 

いいところもあるけど、悪いところもたくさんある。それが「人間らしい」ということなんだろうと思う。だから、悪いことをしたときに「人間のすることじゃない」と非難するのはおかしいと思うんだよね。

「ヒト」という生物として見た場合、遺伝子の発現には実にさまざまなバリエーションが存在する。そもそも遺伝子がコピーされるときには、かなりの確率でバグが起こるらしい。だから、いわゆる「障害」と呼ばれる形質も出てくるわけだが、「ヒト」の偏った知能や感情ではそれを根本的に理解したり受け入れたりすることが難しい。

バグなのだからどうしても少数派になってしまい、多数派から差別されてしまったりもする。

この「差別する」という行動もまた、「人間らしい」行動ということになるんだろうか。

それを、理性と知性でもって、なんとかなくしていこうという動きがあるのは、「人間」の良い面と言えるだろうが。

 

まったき性善説に立てば、「人間らしい」はほめ言葉になるだろう。

でも私は、そこまでほがらかにはなれないので、暗黒面も含めての「人間らしさ」だと思っている。

 

というか、「人間らしい」って別にほめ言葉じゃないよね。

ほめ言葉としてだけ使われることが多いので、違和感がありすぎるのだ。