6年めの読み聞かせ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

読み聞かせを始めてから6年たった。

もう6年、だし、まだ6年でもある。

ストーリーテリングは読み聞かせよりちょっと遅いので、まだ6年たってないし、覚えたおはなしも9話しかない。今年はもうちょっと増やしたいなあと思っているのだが、語りたくなるようなおはなしがなかなかなくて困っている。松谷みよ子さんのおはなしあたりに挑戦してみようかとも思っている。

 

今日は、朝のおはなしとして、4年生の教室へ行った。語ったのは、イランの昔話で「まめたろう」というお話。「体は小さいけど心臓は大きいんだよ」という奇天烈なことをいう豆の男の子のお話。都の王さまから靴の代金を取りたてにいくんだけど、道中で、かまどの火や小川や狐と出会って、彼らを心臓の中にいれていく、というのが物語の前段。都につくと、彼らが王さまのひどい仕打ちから救ってくれる、という昔話の常道をたどるお話である。

この話をすると、必ず終わってから「どうやって心臓に入れるんだろう」という声があがる。

そこを想像するのが楽しいんだよ、と答えると、「えー」と言いながらみんな一生懸命考えている。私はこういう奇妙な、奇想天外なおはなしが大好きだ。

今日はいつもより少しだけ、子どもたちと気持ちを通わせながら語ることができたような気がした。お話が自分のものになりつつある、という感覚があったので、語っていてとても楽しかった。

 

午後には、読み聞かせのサークルで毎週実施しているおはなし会があって、そこで、1年生の子たちに「牛方とやまんば」という長野県の昔話を語った。

案外、日本の昔話のほうが、わからない言葉や風習にひっかかることが多いような気がする。

外国の話なら、最初から知らないという前提で聞くのだが、なまじ日本の話だと、知っている、わかっていると思ってしまう。しかし、社会が変化したことで消えてしまった風習や常識、あるいは道具などは、いきなり話しても子どもたちにはわからない。

「そういうものだと、さらっと流してしまえばいい」という意見もあるのだが、やはりある程度の注釈は必要なんじゃないかと最近思うようになってきた。

わからない言葉や行動があると、それが気になって話に集中できないのだ。

だから、そういう説明や注釈を、いかにおはなしを壊さないように入れていくか、ということをこれからは考えていこうと思っている。

 

「おはなし」は、物語を覚えて語る。

それは、とても芝居に近いところにあるんじゃないか、と思う。

子どもたち、というごまかしの効かない観客の前で、ひとつの世界を作り上げる。いかにそのお話をまるごと伝えられるか、いかにその物語の面白さ楽しさを伝えるか。毎回が真剣勝負なのである。そのせいか、おはなしを語ると、体の芯が疲れる。10分、15分という短い時間なのだけれども、やはりひとつの舞台なんだなと思う。

 

絵本の読み聞かせは、本があって、それを読むだけだから簡単だと思いがちだが、これもまたひとつの舞台なのだ、と思う。それは始めたころからそう思っていた。

漫然と読むと、聞き手の気持ちがだれる。それはもう手に取るようにわかる。関心が逸れ、気持ちがバラバラになって、教室の温度が下がったような気さえしてくる。

でも、絵本の世界を把握して、緩急をつけていくと、子どもたちの視線や気持ちがきゅっと集まってくるのがわかるときがある。その時の一体感は、何とも言えず楽しいものである。

だから、私は、自分が面白いと思った絵本だけを読みたいと思う。

教訓的だから、とか、評判がいいから、というだけの理由で選んだ本は、読んでいると自分の気持ちが冷めていくときがある。そういう絵本は、やはり読んでも反応が良くない気がする。

 

「これはいいおはなしだから」とか「この絵本は名作だから」という理由だけで選ぶことはやめようと、最近思うようになった。6年やって、ようやく自分の感覚がつかめてきた、ということかもしれない。

 

読書は娯楽である。楽しむことが大事なのだから、語り手読み手である自分がまず楽しいと思える本を選びたい。そうして、その楽しさを少しでも子どもたちと共有できたらいいなと思うのである。