写真映り | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ミュージカルのパンフレットに載せるために、写真を提出することになりました。

夏の、市民ミュージカルの時は、撮影を担当してくれたスタッフがいて、その人が撮ってくれたんですけども、今回は、自分で用意しなくてはなりません。

私は、風景写真や、家族、友人の写真を撮るのは好きなんですが、自分が写るのは嫌いです。
なので、自宅には、自分の写真がほとんどないんですね。
もっとも最近撮った写真は、去年、仕事で必要になって撮った証明写真です(笑)
その前は、もう何年前になるのか、旅行したときに「遺影に使ってw」と言って撮ってもらった一枚のみ。

数年前の証明写真というのもなんだし、だからといって、またお金を払って証明写真を撮るのも気が進まず、とりあえず携帯を使って自撮りに挑戦してみました。

とはいえ、古いタイプのガラケーなので、自撮り機能がついていません。
鏡を使ったりして、四苦八苦しながら撮影してみました。


まあ、写真の出来については言わぬが花ということで、スルーしますが、何度も何度も撮りなおすうちに、わかってきたことがありました。

写真嫌いということで、私は長い間自分の姿について客観的に見ることができていませんでした。
鏡は見ますが、あれはどうしたって、脳内で自動修正機能が働いてしまうようです。
おまけに、動いてますしね。

ところが、写真というのは静止画像です。
ある一瞬で止まっている自分の顔、というのは、非常に奇妙なものなんですね。



自分の顔、というのは、自分のものでありながら、ついにまともに見ることのできないものです。
鏡を使えば、反転した像を目にすることはできますが、自分が他人の顔を見ているようには、自分の顔を見ることができません。
これは、はたして救いなのでしょうかね。

しかし、写真を撮ると、そこにあるのは、他人に見えている姿。
ふだん、あまり写真を撮られない人が自分の写真を見てショックを受けるのは、「私は他人にこんなふうに見えているのか」という、認識と現実のギャップが大きいからです。
少なくとも私はそうなんですね。
なんとなく、いつも、ちょっとだけいいふうに修正して自分の姿を認識しているらしいのです。
だから、不意打ちのように撮られた写真の中の自分の姿を見ると、ぎょっとします。
え、なに、この不細工なおばさんは、って思う。
それが現実なのだ、と理性は教えてくれるんですけども、感情がね(笑)
やだやだやだやだ、と駄々をこねるのです。



何枚も何枚も撮りなおして、ようやく、これならまあいいかと思える写真が撮れました。
角度だとか、表情だとか、ちょっとしたことでずいぶん変わるんですよね。
撮った後で修正するスキルを持っていないんで、写るときの技術でなんとかしようと奮闘しました。

それで思ったんですよ。
最近の人は、しょっちゅう自撮りするでしょう?
私にはとてもできないことだと敬遠していたんですけど、もしかしたら、日常的に自分の写真を目にすることで、どんどん写りがよくなっていくんじゃなかろうかと。
有名人になると、写真を撮られることが多くなりますよね。そうすると、自分の姿を目にすることが増える。増えると慣れてくるので、撮られるときにどういう顔をすれば、どう写るかがわかってきます。わかってくれば、そのほうに表情を作ればいいので、さらにいい写真が撮れるようになる、という素晴らしいサイクルができるわけです。

逆に、写真に慣れていないと、自分がふだんどんな顔をしているかの自覚ができない。表情筋がどうなって、どんな顔つきになっているのかが把握できていないから、自分の中のイメージと、実際の写真に大きなギャップを感じてしまうわけです。

役者というのは、舞台の上で自分の身体や表情を自在に操れるようにしなければなりません。
どこをどう動かせば、どう見えるかをちゃんとわかっていないと、役の感情を表現できないのです。
それと同じことなんだなあと、初めてわかった気がします。



それにしてもね。
私ってこんなふうなんだ、って認識するのがこんなにつらいことだとは思いませんでしたよ。
どんだけ上方修正してたんだっていう話(笑)