灰色のひなのムクロ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「耳をすませば」というアニメ映画で、忘れられないシーンがある。

「今はこれをやりたいの」と小説を書くことに取り組むしずくが、書きあぐねて夢を見る。
宝石を見つけて喜び勇んで掘り出してみたら、それが手の中で、灰色の、ぐったりしたひなの死骸に変わっている、という夢だ。
しずくは冷や汗をかいて飛び起きる。

あのシーンはいつ見ても身につまされる。

アイデアを思いついたときや、ある程度波に乗って書き始めたとき、第1稿が書き上がった時。
「お、これイケるんじゃね? つか、けっこうよくね?」とワクワクする。
しばらくそれに夢中になって、頭の中がかーっと熱くなるんだけど。

ふっと、外の風に触れると、一瞬で「灰色のヒナの死骸」に変わってしまう。
それはもう、恐ろしいほどのスピードで色褪せる。死んでしまう。
今まで、夢中になっていたアツいものが、ひどくありふれててつまらないものに思えてくる。

そうなると次々にアラも見えてくる。
あそこがだめだ、ここがだめだ。
ついには、あー、もう、全部だめだ、となる。

書き直しの誘惑に負けそうになるのはこういうとき。

今までは、そういうときには最初から書きなおしていた。
でも、シナリオ教室に通うようになって気がついた。
そうやって、第1稿を破棄したら、次が書けないのだ。

死骸になってしまったからといって、簡単に放り出してしまったら、あとは埋葬するだけ。
埋めて、涙をこぼして、それでおしまい。

またゼロから形にすることがどれだけ大変なことか。

もし、全面的に書き直すなら、それは、新しいアイデアが生まれたときだ。
アイデアがあるなら、書き直しもいい。
でも、宝石が死骸に変わってしまったように見えたから、という理由だけじゃだめだ。


今日は久しぶりにシナリオ教室へ行った。本来の1回めの開講日が台風のためになくなってしまったので、ほぼ1ヶ月ぶりだ。
何度か書き直しをした課題を提出した。教室の仲間にいろいろ感想やらアドバイスやらをもらって、やっぱり一人で書くのとは違うなあと思った。
それはいいんだけど。
コンクールの話が出たときに、先生が受賞作の素晴らしさを紹介してくれた。それを聞いた瞬間に、自分の書いているものが、みるみるうちに死んでいくのを感じたのだ。
ああ、私が書いているものはなんてつまらないものなんだろう、と。
木枯らしに吹き飛ばされる虫食いの枯れ葉のようだった。


今、こうやってブログを書いている段階では、死骸にちょっと血の気が戻ってきたかなあという感じ。
宝石なのか死骸なのかわからないけど、せめて自分くらいは宝石と信じて、あるいは宝石になれると信じて書いていくしかない。

と同時に、自分の作品を客観的に見る目も忘れたくないと思う。
教室には、なぜか自分の作品を客観的に見られない人がいる。内容ではなく、もっと初歩的なこと。シナリオ作法とでもいうべき初歩的な決まりがどうしても頭に入らないようなのだ。
たとえば、規定枚数が守れない人とか。ト書きの意味が理解できない人とか。
そういう欠点を自覚しているならいいんだけど、なぜか自覚できないらしい。その割には自作に絶大な自信を持っていて、テレ朝とかフジテレビとかNHKなどの大きなコンクールに応募したいと言う。いや、言うのは本人の自由なんだけどさ。

私もあれくらいの自信が欲しい。いや、あそこまでじゃなくてもいいか、でももうちょっと自分の作品を信じたい。
そのためには、腕を磨くしかないんだけどさー。書くしかないのか。
破棄して書き直し、の誘惑と戦い、ときには潔く破棄し、時には粘り強く推敲する。
そういう力が欲しい。