罰したい気持ち | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日書いたことと、どこかでつながってる気がする。

今朝見た新聞の投稿欄に、68歳の女性の投書があった。
子どもの虐待に胸を痛めている方らしいのだが、虐待した親に対する処罰が甘い、とお怒りであった。もっと厳しい罰を、というご意見のようである。

少年犯罪もそうなんだけど、こういう「厳罰を望む気持ち」ってなんなんだろうなと思う。
そもそも、どういうことを指して「厳罰」と言っているのかがわからない。
長期間、刑務所に収容しておくことが「厳罰」なのだろうか。
子どもを虐待死させた親には死刑も視野に入れるべき、とまで、上記のご婦人は書いていた。

そう言いたくなる気持ちもわかる。
非道な事件が起きると、その極悪非道な行為をした人間を、同じだけひどい目に合わせてやりたくなる。
それは、自分を被害者の立場に擬することで、加害者を痛めつけたいという願望だ。
どうかすると、被害者の心情なんて二の次で、単に自分の鬱憤を晴らしたいだけなのかもしれない。

そういう心理はできれば自覚したくないから、そういう人たちは常に「被害者の気持ちになってみろ」という言い方をする。
それは、暗に、「もし自分が被害者だったら、絶対相手を許さず、こてんぱんにやっつけてやりたい」という気持ちの現れなのだが、まあ、まずそこまで明言はしない。


刑罰が厳しくなれば犯罪は減るのだろうか。
というか、罪を犯した人は、その罪に手を染める時に後の刑罰と天秤にかけたりできるのだろうか。
天秤にかけてやめられる人はそういうことはしないだろう。
してしまった人は、天秤が罪を犯す方に傾いたか、そもそも天秤が見えてないかのどちらかだ。

子どもに関しては、「しつけ」という大義名分がある。
何か重大な事が起きるまでは、「これはしつけだ」という言い訳が通用してしまうもので、世間だって「厳しいしつけ」を望んでいるのだから、そこにブレーキはない。
たまたま、重大な結果になってしまって、ニュースになったりするから、批判したり非難したりすることになるわけだ。

「昔はそんなことなかった」と言うが、昔は表面化しなかっただけなんじゃないのか。
今ほど情報網も発達してなかったし、人々の意識だって低かった。知識もなかったし。
だから、昔話の中には、壮絶な虐待の様子が、あっけらかんと語られていたりするのだ。
先妻の子だから、というだけで差別されたり、いじめられたり。顔がきれいだからというだけで見知らぬ男の嫁にされてしまったり。親の言うことを聞かない子はひどい目にあうよ、というお話はたくさんある。


起きてしまったことに対して、どれだけ「厳しい」罰を用意したって、少なくとも虐待に関しては事件が減ることはないと思う。
だって、誰しも、自分がやってることが犯罪だとは思っていないのだから。
「うちはよそより厳しくしつけているから」と思っているんだよ。
あるいは、育児放棄してしまう親なら、そもそも自分自身が救済されなくてはいけないような人だったりする。それを、逮捕して裁判にかけて、「身勝手な行為」と糾弾し、刑務所に収容して、それでどうなるというんだろうね。そもそもの問題点は何一つ解決してないのだから。

昔話なら、ひどいことをした者、悪いことをした者は、こらしめられ、傷めつけられ、時には殺されてしまっておしまいになるだろう。
昔はそんなふうにしか解決できなかったのかもしれない。

でも、それがほんとに解決なんだろうか。私にはそうは思えない。

確かに、虐待死してしまった子どもはかわいそうだ。不憫である。
だからといって、その親を長期間刑務所に収容してどうにかなるとは思えない。
「厳しい罰を」というとき、その「厳しさ」とは往々にして刑務所に収容されている期間のことをさす。
「あれだけのことをして、たった3年か。短すぎる」という不満を持つ人は、その3年の中身をどれだけわかっているんだろう。
3年間、刑務所でどういうことをしているのか、ちゃんとわかった上で言っているようには見えないんだよなあ。ただただ、自分の鬱憤、不満を、そういう言葉で吐き出しているにすぎない。
いかにも正しい意見のように聞こえるから、ついついそういうふうに言いたくなるものだけれども。

本当にその問題を解決したいと思うなら、単純な勧善懲悪思想に陥らないように、気をつけないといけない。