桃太郎はなぜ鬼を退治するのか | 10月の蝉

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「昔話」の改変が許せない人がいる。読み聞かせ業界ではけっこう多い。特に年配の人はそうだ。
「最近の昔話は、結末を甘ったるいものに変えたり、残酷な部分を削除してしまっているからよくない」という話は実によく耳にする。

鬼ヶ島へ行った桃太郎が、鬼を殺さず、説得して改心させる、とか。
さるかに合戦で、最後にさるが「ごめんなさい」と言って、それで円満解決にする、とか。
カチカチ山で、たぬきが死なない結末とか。
舌切り雀では、おばあさんは雀の舌を切らず、三びきのこぶたでは、ぶたは狼に食べられず、狼も三匹目のこぶたに食べられない。

こんなふうに書き換えられた絵本がたくさんあって、実に嘆かわしいという。

私が見聞きした限りではもっともやり玉にあげられているのは、いもとようこさんの「三びきのこぶた」である。これは、かなりの割合で「よくない改変」の例および「甘ったるい絵」のサンプルとしてあげられる。
もちろん、「悪くはないんだけど」というエクスキューズはついているけどね。

本屋へ行くと、実にたくさんの絵本が置いてある。
たぶん、そういう光景を念頭に置いているのだろうが、「質の良くない絵本がたくさんあるんですよね」という言い方もよく聞く。

「子どもたちには良質の絵本を与えたいものだ」というのは立派な正論なので、反論しづらいが、そもそも「良質の絵本」の基準はどこにあるんだろうね。

絵本の話はちょっと置いておくとして。
「昔話」のことについては、私はずっと迷っている。
まず、今ある「昔話」に対して持っている違和感。
ストーリーテリングをするために、おはなしを覚えようとするとき、昔話を薦められることが多い。ずっと語り継がれてきた物語だから、とか。語ることに関して完成されているから、という理由からなのだが、いざおはなしを選ぼうとすると、ためらってしまうような話が多い。

私がもっとも嫌いなのは、嫁取りに関する話。あるいは因果応報や勧善懲悪、復讐譚。
嫁取りの話が嫌いなのは、そこにまったく女性の存在が考慮されていないからである。
昔は、女は嫁になるしか価値がなかったのだろう。だから、顔がちょっときれいだからとか、働き者だからとか、時には年格好が釣り合うから、というだけで、見も知らぬ男の嫁にされる。
人身御供にされることもある。
親孝行な息子と母親がいて、その二人の世話をするためにだけに嫁にくる、という筋書きがほとんどだ。そして、簡単に「ふたりはずっとしあわせに暮らしました」と片付けられる。
昔話にこういう描写が出てくるということは、その話が成立した時代の価値観がそうだったということだ。
兄弟が力を合わせて宝物を取ってくるのも親のため。親を助けるために子どもは命を捨てたり、大変な苦労をしたりする。
こういう話が残っているということは、そういう価値観がよしとされていたからだ。

昔話を語る人たちは、「昔話だから」というだけの理由でそういうことをスルーする。
「ああ、面白かった、と思えるお話なのだから、細かいところに目くじらを立てるものではない」という。
しかし、その一方では、昔話を聞くことで、子どもたちがさまざまなこと(たとえば世間の価値観とか)を学び、想像力が豊かになる、という。

もし、想像力がほんとに豊かになるなら、数々の残酷な場面をどうして想像せずにいられるだろう。それはほんとはどういうことなのか、なぜそういう筋書きになるのか、など、気になるところはたくさん出てくるんじゃないだろうか。

でも、それはしなくてもいい、いやむしろしてはいけない、と言われるのだ。
じゃあ、いったい何を想像すればいいんだろう。

桃太郎の冒頭で、桃が流れてくるところとか、その中から男の子が出てくるなんていうところは、「ああ、そういうことにするのね」と納得できる。設定、ということなのだから。
年配者が忌み嫌うゲームだって、まずはその世界観、設定を受け入れなければ始まらない。だからそこはすっと受け入れられるのだ。
犬、サル、キジをお供にするのもわかる。なんで動物なんだ、とは思わない。だって桃から生まれたような人間がすることだもの。ふつうの人間ではついていけないだろう。
問題は鬼ヶ島だ。
物語の前提として、村の近くに鬼たちが住んでいて、ふだんから狼藉の限りを尽くしていることになっている。村を襲っては略奪を繰り返しているというのだ。貧しい村から略奪するのだから、農作物とか、あるいはどこぞの娘なんじゃないだろうか。もしかしたら男もさらうかな。力仕事をさせるために。
ということは、鬼たちは奴隷制度を採用しているわけだ。

先般、アラブの方で、敵対民族の女子供を奴隷に売り飛ばしていた、というニュースを見た気がするが、こんな感じだったのだろうか。

桃太郎は、そういう虐げられた現状を変えるべく、鬼退治に向かうわけだ。

幼いころにこの話を聞いたら、頭に残るのは「悪い奴はこてんぱんにやっつけるべし」という感覚だろうと思う。敵は殲滅すべし。それが正義。はっきり言葉で理解しなくても、鬼がやっつけられて泣いていて、桃太郎たちが意気揚々と戦利品を持って帰る絵を見たらそう思う。

そりゃ、おはなしとしては面白い。悪いやつがやっつけられる、というのは問答無用のカタルシスだし。おまけに金銀財宝が手に入るというなら、こんな嬉しい話はない。

(当然のことだが、昔話は何かの暗喩であることが多い。だから桃太郎の話でも、登場してくるキャラクターは当然何か(誰か)を象徴しているのだろう。だからこの話がずっと語り継がれてきているのだ。)

娯楽として、お話を楽しむだけでいいのだ、というなら、ゲームだって同じだと思う。
どっちもフィクションだ。なのに、ゲームだと想像力がなくなって、現実と混同してしまい、真似に走る、という。まあそれは、たぶん、やったことないからわからないんだろうと思うけど。

昔話をして、その真似をする子は一人もいません、と断言する人もいるんだけど、そりゃあ、雀の舌を切ったり、たぬきに薪を背負わせたり、犬やサルやキジにきびだんごをやって鬼ヶ島へ行くなんてことができるわけがない。
そのかわり、知らないうちに植え付けられた価値観で生きていくようになるのだ。
こちらに害をなすものは、徹底的にやっつけてよい。そしてそれを面白がってもよい、と。
なぜなら、因果応報が世の習いであり、勧善懲悪であるべきだからだ。


それでいいんだろうか、といつも思うのだ。
だって、価値観は変わり続けてる。
武家社会では、死には一定の意味と価値があったけど、平成の今の世の中では、死はもっとも忌み嫌われ、なんとか逃れようとするべき悪である。
死んではいけない、死ぬのはよくないことだ、と口を酸っぱくして言い聞かせているのに、昔話の中では簡単に人が死ぬし、悪いことをしたらどんなひどい目にあわされても仕方ないとされる。
そりゃあ、現代の作家が書き直したくなるのも無理はないんじゃなかろうか。
不変のように扱われている「昔話」だって、語り継がれる内に変化してきた部分は必ずあるはずだ。というか、口伝えで語るなら、ある程度はその時代の価値観を反映して当然なんじゃないかと思うのだ。
昔は社会の変化が乏しかった。だから、昔話が「むかし」のことではなかった。ただ、差し障りがあるから、「むかしむかしあるところに」と時制と場所をぼかして語るようにしていただけなんじゃないかと思う。

そういうお話を今の子どもたちに語る、とはいったいどういうことなのか。
考え方のサンプルとして提示すればいいのか。
現代から見るとおかしな価値観だけど、昔はこんなふうだったんだよ、という意味合いで語ればいいのか。

それでも私は、嫁取りの話は気持ち悪くて、腹立たしくてまともに語れない。つい、「なにいってんだこいつ」と思ってしまう。こんなこと許せない、なんて思ってしまう。
因果応報や、復讐譚も、確かにカタルシスはあるけれども、そこにカタルシスを感じる自分に忸怩たる思いも湧いてしまうのだ。

想像力っていうのは、自分以外の存在に思いを馳せる、ということだろう?
それなら、やっつけられる相手にも、それなりの事情があるんだろうな、と思うのが想像力だと思う。


とりあえず今、私が語る昔話は、「三枚のお札」「風の神と子ども」「犬と猫とうろこ玉」「牛方とやまんば」の4つである。やまんばや鬼ばばが出てくるあたりがちょっとひっかかるけど、まだ我慢できる程度なので、これらを語っている。
グリムもけっこう残酷な話が多いのだが、もしかしたらこの残虐さを楽しむくらいのつもりで語ればいいのかもしれない。人間の悪の側面が自分にもあるのだ、ということをきちんと自覚するために。

いつか、自分の中で折り合いがつけばいいなと思う。
お話を語ること自体はとても楽しいので、語る話の内容にちゃんと共感して語りたいと思うのだ。