台本どおりに | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

私は、自分が脚本を書くこともあるせいか、セリフを勝手に変えるのが嫌いです。

脚本を書くときは、そのセリフを発する人の性格や心情などいろんなことを考慮して言葉を決めます。選ぶ言葉、語順、語尾にいたるまで、あらゆる効果を考えて書くのです。
(それができているかどうかは、別として)

日本語というのは、語尾がさまざまに変化します。語順によっても、その人が何を一番いいたいのか、どういう心境なのかが如実に現れます。
究極の即興劇である「日常生活」では、時として失敗してしまって、言うつもりのなかったことを口走ってしまったり、言い間違えたりします。
しかし、事前に用意された芝居なら、そこはきちんと計算されているはずなんですね。
だから、脚本のセリフは極力変えるべきではない、というのが私の持論なのです。

アドリブですら、ちょっとなあ、と思っています。
それが功を奏するのは、たぶんとてもまれなことなんじゃないかな。
鍛えぬかれたプロが、ごくまれになし得る奇跡。そんなふうに思っています。
決して、アマチュアがその場の思いつきだけで口走っていいようなものじゃないのです。

でも、往々にしてそこがグズグズになってしまいがち。
「受けたんだからいいじゃない」とか。

誰かのセリフが飛ぶなどのアクシデントがあったときに、当意即妙に切り抜ける、という、ある種の伝説になるような場合は別として、安易な考えによるアドリブは芝居を壊す、と私は思っています。これはまあ、いろんなアマチュアの芝居を観てきて感じていることなんですけども。


書いてある言葉をそのまま覚えて口にすることが、なにかつまらないことのように思えて、自分なりに改変してしまう、という誘惑に駆られる人はけっこういます。
あるいは、覚え方が中途半端なため、ところどころ自分の言葉で勝手に補ってしまう癖のある人とか。

厳密に言えば、そういうことをすると、芝居の中身が変質してしまうと思うんですよ。
そりゃあ、初見のお客さんにはわからないかもしれない。
でも、演劇はその大部分をセリフに依っている表現ですから、そこが変わるということは、大げさにいえば芝居のニュアンスが変わってしまうということだと思うのです。
だから、理想としては、一言一句変えずにセリフを覚えたい。相手にもそうやって覚えてほしい。

そこから、ようやく芝居が始まると思うんですね。
完全にセリフを覚えてしまって、それからいったん忘れる。
さっき、ツイッターで見かけた、伊東四朗さんの話がとても印象的でした。
セリフを覚えると、相手のセリフも覚えてしまう。まあ、覚えなくちゃいけないんだけども、覚えたらいったん、相手のセリフは忘れる。そうしないと、「待ち受けてる」感じになってしまうから。
そういうお話でした。
これ、すごくよくわかるんですよねえ。
セリフを完璧に覚えるのはとても大事。というかそれがまず第一。
その次には、そのセリフを言うタイミングを覚える。そのためには相手のセリフも覚えなくてはいけません。
でも、このままだと、相手のセリフをすでに知ってる感じになっちゃうんですね。

実生活でこんなことがあったら超能力ですよ。次に相手が何を言うかわかっちゃってる、なんていう事態は。究極の即興劇である「日常生活」においては、常に相手が次に何を言うかはわかっていません。だからこそのリアクションがあるわけで。

ところが芝居では、もう相手のセリフもリアクションも、次の展開も、話の結末までわかってしまっている。わかった上で、でも、知らないという前提で演じなくてはならないわけです。

相手のセリフは、常に「初めて聞くこと」でなくてはならない。
初めて聞くにも関わらず、計算されたとおりにストーリーが進まなくてはいけない。
ここが、演劇の難しいところでもあり、楽しいところでもあるんですね。


ですから、セリフを勝手に自分流にアレンジされたり、必要な語彙を飛ばしたりされたら困るわけです。台本にないような勝手なアドリブを入れられるのも困る。収拾がつかなくなるんです。
そういう違和感はお客さんにも伝わります。

カットごとに編集する映像でなら、アドリブもありかもしれません。
あるいは、タレントの人気によりかかったテレビドラマなら、そのタレントのキャラだから、ということで通してしまえるかもしれません。
でも、舞台は後戻りできないし、編集もできません。常にそのとき、リアルタイムで進行するもう一つの現実なのです。



とまあ、こんなことを考えながら日々芝居に向き合っている今日このごろです。
私は今回、そんなに出番も多くないし、セリフも多くないので、せめて完璧に覚えたいと思っているわけですが。
頭が痛いのは、年配の参加者さんたち。人によっては年齢を言い訳にする人もいるのです。
「なかなか覚えられないわ」という愚痴ならまだしも、覚えられないことを歳のせいだからと開き直られてしまうと、ほんとに困ります。それなら、別の形で、例えばエチュード形式とか、そういうふうな形でできることをなさればいいのに。

そんなこんなを内包しつつ、明日もまた稽古に行くのです。
今は芝居の稽古が楽しくてたまりません。怖いし苦しいし大変なんだけど、それがとても楽しく感じられます。たぶん今、私は幸せです。