出会いはどこにある? | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「誰かいい人いませんかね」
つい最近、話の流れでこんなことを言われた。
まあ、言ってる方もそこまで本気じゃない、というか、半分くらい口癖になってるんじゃないだろうか。
仕事も忙しいし、それ以外の活動も忙しい。でも、職場と家と、それ以外の活動の場を移動してるだけで、それぞれのメンバーは固定されてて、目新しい出会いがないのだという。
その人の話を聞いてると、確かに新しい人との出会いは少ないだろうなあと思わずにはいられない。構成メンバーが固定されていたり、狭い世界なのでほとんど顔見知りだったりするのだ。
もっと他の場へ出て行ったら、というありがちなアドバイスも、「そんな時間がないんですよ」の一言で却下。そして、それもまた無理もにないよなあと思えるような環境なのである。


しかしね。
「誰かと出会う」ときっていうのは、そういった現実的なしがらみとは違う次元にいるときなんじゃないかなと思うのだ。
逆に言えば、「出会いがない」と思っているうちは、実は自分の方に、出会いに対する需要がなかったりする。
表面上はね、そりゃ「誰かいい人いませんか」とか「一人じゃ寂しいし」って言ったり思ったりするんだよ。
でも、もっと深いところでは、そういう人の存在を決定的に必要としてないんじゃなかろうか。

理由はいろいろなんだろうけど。
でも、こういう言い方をする人は、わりと「自分を開かない」タイプが多いような気がする。

よく熟した桃の実は、果肉が甘くて柔らかい。でも、それに安心して食べ進めていくと、ガチンと固い種にぶつかる。おいそれとは歯がたたない、固い種。その固い殻の中に、桃の実の本質がある。

つまり、人当たりが柔らかくて、「誰かいい人いませんかねえ」と恋人募集中のように振る舞っていながらも、いざ、本格的にその人の内部に突き進もうとすると、ガツンと弾き飛ばされる。
ここから先は絶対立入禁止、みたいな厳重なバリケードでもって、自分の本心を守っている。

その方法は、たとえば、物理的な条件だったり、厳格な好みだったり、自分の外的条件(年齢とか容姿とか家庭環境とか)だったりといろいろなんだけど、とにかく、最後の最後にはものすごくがっちり自分を守ろうとする。

ということは、「出会いが少ない」と嘆きつつも、実際には自己開示をしなかったり、二の足を踏みまくったり、と、もしかしたら存在しているかもしれない「出会い」に目をつむっている可能性もあるんじゃないかと思うのだ。


心を開く、ということを、「自分を安売りする」とか「プライドが許さない」というふうに捉える人もいる。
そうまでして守らないと壊れてしまうくらい、弱い自分なのかなあ。
みんながみんなそうだとは思わないけど、なんとなく、「出会いがなくて」と嘆いてる人は自分で扉を閉ざしているような気がする。


出会いは突然訪れる。これはほんとだと思う。ただ、それに気づかなかったり、気づいてもやり過ごしてしまったりするから、「出会いがない」って思っちゃうんじゃないのかな。
あと、その人にとって本当に必要なタイミングではない、ってことも、あると思うなあ。