居場所を探す | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

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今日の午後、芝居の稽古をしたところで撮影。

芝居の稽古は楽しい。怖いしドキドキするし不安もあるけど、やっぱり楽しい。
これからきっと苦しい時もやってくるだろうけど。


夜、別の劇団の親睦会に出席した。
そこで、今回の芝居の脚本を書き、演出をする人と話す機会があったんだけど、その人は今回の公演で芝居は終わりにする、という。これからは見る方になるんだと。
理由を聞いて、考えてしまった。

「そこまでの自己開示、自己解放はできないな、と思ったから」
というのが理由だった。
その人は東京の学校に通っていたことがあって、そこでいろんな人を見たんだそうだ。
そして、「プロでやっていくということ」や「芝居をする、ということ」について考えたんだそうだ。

芝居をする上で、感情解放というのはとても大切なことだ。
「自分」という殻を固く被ったままでは、役を生きることもできないし、観客の心を動かすことはできない。
「私が」恥ずかしいとか「私が」みっともなくていやだ、なんていうふうに、どこまでも自分にこだわっていたら、舞台の上でその役として存在することができない。

でもこれは、とてもむずかしいことでもある。
どうしても自分を守りたくなるし(イメージとかね)、恥をかきたくないという気持ちを捨てるのは難しい。
だって、芝居をやらなかったら、ふつうは自分のイメージを守って、恥をかかないように生きようとするもんだから。

それでも、舞台の上の役者に感動するのは、そこに、狭い自意識を捨て去って、その芝居の登場人物と同一化して一つの感情をぶつけてくれる瞬間があるから。
そのとき、観客はその物語を共有し、その物語の世界の中で生きることができるのだ。


そういうことは自分にはできない、ときっぱり言い切ったその人を、私はすごいと思う。
私はそこまで潔くなれない。未練がましくこの世界にぶらさがっている。


未練がましいとは思うが、それでもその世界に浸っている時間がとても充実していることも確かだ。
その劇団には私の居場所がありそうだ、と今は思っている。まあ、役者で参加しているということも大きいのだが。


芝居とか音楽とかって、やっぱり世間からは逸脱した世界なんだなと思う。
そういうことをしているときって、時間の流れ方が違うような気がする。
うまくいえないけど、「世間」とか「一般常識」とかそういうものから離れて、なんか別の色をした世界に生きてる気がする。

夜、親睦会に行った方は、もうちょっと世間的な匂いがする。
参加している人に初心者が多いせいなのかな。それとも劇団のカラーかな。
ただ、ちょっとだけ馴染めないというか、一歩引いた気持ちになったことも確かなんだよな。


ああ、私はそんなふうに感じるんだ、と再認識した夜。