親睦会のなぞ | 10月の蝉

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取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

なんらかの団体に所属すると、一度は経験する「親睦会」なる催し。
昼間に、バーベキューやハイキングを行うといったアクティブなものもありますが、もっともポピュラーなのはたぶん「飲み会」という名の親睦会ではないでしょうか。

これがねえ。
実はよくわからないんですよ。
そもそも、「飲食を共にすることで親しくなる」というのが今ひとつピンと来ないのです。
親しくなってから飲食を共にする、というならわかる。
仲の良い、気のおけない人となら、同じ食卓で物を飲み食いしたって大丈夫です。
でも、そうでない、というか、そこまで親しくなっていない人たちと、同じ時間同じ場所で飲食する、となると、とたんに混乱してしまうのです。

えーと、食べる方に集中していいのかな? いや、でも、やっぱりお話もしないとまずいよな?と、ウロウロしてしまう。

「口の中に物を入れて喋らない」というのは、食卓でのマナーですよね、一応。
となると、うかうかと食べ物に夢中になっていると、しゃべる時がなくなってしまいます。
かと言って、しゃべっていたら、ものを食べることができない。
先日、友人の家で一緒に夕食を食べたとき、私は夢中でしゃべっていたために、目の前のサラダをなかなか食べ終えることができませんでしたよ(笑)


よくある「親睦会という名の飲み会」は、居酒屋などのお店で行われることが多いですよね。
お店側もそれ用にコースを用意したりして。
何品かの料理と飲み放題がセットになって2時間コース、みたいなのが定番かと思います。
そうするとですね。
お店で席につくと、各自の取り皿などが用意されていて、大皿で料理が次々に運ばれてくることになります。合間にはお酒などの飲み物を注文し、まずは「乾杯」から、なんていう流れになりますわね。
私がいつも戸惑うのは、このあと、どうしたらいいんだろうってことなんですよ。
若い頃はお酒も口にしましたが、体質に合わないことがわかってからは、まずこういう席ではアルコールは飲みません。たいていは烏龍茶のグラスを持っているわけですが、まあ、それはいいんですよ。
隣り合った人と、ぼつぼつと話をしながら、運ばれてくる料理を食べる。でも、こういうところの料理って、言ってみれば飾りみたいなもんで、さほど好きなものや食べたいものが出てくるわけじゃありません。でも、出されたものは食べなくては、という義務感(だってもったいないし、食べないのって罰当たりな感じがしませんか?)で、箸をつけていきます。
周囲の人と、思いがけなく話が弾んでしまうと、もう食べてるヒマがありません。口はしゃべる機能に特化してしまうから。そうして、目の前にどんどん料理が溜まっていくのです。

ああいう、宴会コースの料理をきれいに平らげてるグループってどのくらいあるんでしょうね。けっこう残飯が出てると思うんですよ。
だから、幹事になると、そのあたりを切り詰めたいなと思うんですが、必ずと言っていいほど「少ないと見栄えが悪い」とか「テーブルが寂しくなる」という人が出てきて、結局は、食べないかもしれないけどとりあえずテーブルを埋める程度の料理を頼もう、ということになります。
1人3000円とかのコースで頼むときはまずそうなりますね。
そうすると、料理が残る。食べきれなくてほんの少し残る、なんてレベルじゃなく、ヘタすると手付かずのまま、煮詰まった鍋、干からびた刺身、冷えて油のかたまった揚げ物などが大量に残ることになるんですね。あれを見ると胸が潰れそうになります。
食べるかしゃべるか、どっちかにすればいいのに、っていつも思うんですよねえ。


さらに謎なのは、アルコールの存在。
よく、「一緒に飲むことで距離を縮める」的な発想をしますが、あれってどこまでホントなんでしょうか。
私自身は、アルコールを介在した交流にはほとんど信用が置けないんですけども。
だって、アルコールって理性を変容させる薬物ですよね。みんな酔っ払うためにアルコールを摂取するわけでしょう? 酔っ払うということは、理性を弱めるということです。そういう状態になって本音を見せ合うってことなんでしょうけど、それって翌日からのシラフの状態にどれだけ影響を及ぼすものなんでしょうか。
どんなに良いことを言っても、どんなに素敵に口説かれても、酔いが覚めた時に「酔ってたから憶えていない」っていうんですよね。ほんとに覚えてない場合(これは依存症ですが)もあるし、方便として「憶えていない」という場合がありますけども。
なんにせよ、酒を飲む場で出た言動は、その場限りにすべし、という暗黙の了解が存在する以上、どれだけ飲む機会を重ねたところで、それがシラフの場で通用することはないということになります。
だったら、飲み会で親睦を深めるなんてことはできないんじゃないんですかね。



いや、ほんとはわかってますよ。親睦会というのは、要するに「そういうことをやった」という
実績を残すためだってことは。
誰も本気で、そういう場でみんなと親しくなれるとは思ってない。でも一応、メンバーが一堂に会する場を設定した、という事実が必要なんです。
まだ親しくない以上、ほっとくとみんな手持ち無沙汰になる。私たちは子どもの時から社交的な振る舞いについては教わってきていませんから、知らない人とシラフで友だちになれる技術を持っていないのです。だから、間をもたせるためにも飲み物や食べ物が必要になります。
それを口にしていることでかろうじて間を持たせつつ、なんとか未知の人と知り合いになろうとするわけです。
そのためには若干理性を飛ばす必要もある。羞恥心や無用のプライドを緩めるためには、アルコールの力を借りるのがいちばん手っ取り早いのです。

酒を飲んだ状態って、言ってみればその人の「弱み」が露呈している状態です。
物を食べている時もそう。いちばん無防備な状態なのです。
そういう姿をお互いに晒すことで仲間意識を作る。それが「親睦会」の主旨なのかもしれません。お互いの弱みを握り合う、みたいな。そこまで意識しているわけじゃないんでしょうけど、飲み会を重ねるっていうのはそういうことなのかもしれないなと思うんです。
自分がお酒を飲まなくなってからはいっそうその思いが強くなりました。
酒の席での下戸が嫌われるのは、その仲間意識作りから外れるからなんですよね。

私は、主義主張があって酒を飲まないわけではなく、アルコール分解酵素が少ないために、飲むといきなり二日酔いの状態になって苦しいので、飲まないのです。
だから、意識が変容したり、記憶をなくすほどに酔う、ということがわかりません。
酔って気持よくなったり、楽しくなったり、いつもよりフレンドリーになったり、ということも、まず滅多に起きません。全然ないわけじゃないんですけど、いつそうなれるかわからない。ものすごく気持ち悪くなってしまうこともあって、一種の賭けみたいなもんなんですよ。なので、怖くてお酒が飲めないのです。

だから、こんなふうに「親睦会(アルコール付き)」に対して懐疑的になっちゃうんでしょうね。
アルコールがなくても、今度は相手がバリアを張ってしまってたりするので、なかなか親睦を深めるのって難しいことです。
っていうかまあ、誰も本気で、親睦会で親睦を深めようなんて思ってないんだから、私が杓子定規に考え過ぎなんだとは思います。

ごくまれに、そういう場で誰かと深く語り合う機会に恵まれることがあります。
まさに、「親睦会」というセミオープンな場でなければ話をするチャンスもないような人と、いろんなタイミングが合致して語り合えたりする。
そういうこともあるから、親睦会にも意味があるのかなと思います。

単に自分が社交ベタなだけなんですけどね(笑)
宴会に出ると、いつしかおしりに根が生えて、最初に座った席から最後まで移動しないこともしばしばです。腰軽く、グラスを持ってあちこちに声をかけられる人が羨ましい。そういうことができれば、親睦会(飲み会、懇親会、呼び名はさまざまですが)に出ても楽しいと思います。
楽しいと思うんですが、……難しいんですよねえ。