母と娘の距離 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

今朝のTBS「いっぷく」という番組で、「母がしんどい」という特集があった。

私は、信田さよ子さんの「母が重くてたまらない」も読んだし、田房さんの「母がしんどい」も読んでいる。
もっと前には、アダルトチルドレンに関する本を読み漁った時期もある。
どうしてこんなに生きていることが辛いと感じてしまうのか、なぜいろんなことが「うまくいかない」と思えてしまうのか、それを知りたかったから。

私の母はたぶん「毒親」までは行ってないと思うが、それでも、大学進学にともなって家を出るまでは、母との関係がどうにもしんどくてたまらなかった。
というか、当時は「しんどい」という感覚すら持てなかった。
ただ、母といるといつも、自分はダメな人間なのだ、穀潰しなのだ、生きていてもしかたのない、あるいは役に立たない人間なのだ、と思わされてしまって、悲しくなっていた。
だから、帰省するのがおっくうでしかたがなかった。
おっくうだったけど、「帰りたくない」と明言する勇気もなくて、いつもぐずぐずとごまかしていたものだ。帰らなくてもいい理由があるとほっとした。

今でもくっきり思い出せるのは、大学の寮に入った最初の晩。
見慣れない光景、知らない部屋、まだ荷物が片付かなくて落ち着かない雰囲気だったにも関わらず、部屋の窓から見えた夜景を見て、心の底から「あーーー、一人になれたんだ」と嬉しさがこみ上げてきた。
もう、何をしていてもお母さんにあれこれ言われる心配が、物理的に、ない。
あの解放感は今でも忘れられないのだ。

もちろん、物理的な距離なんて、電話一本で埋めることはできる。
家から電話がかかってきて、あれこれ言われると、やっぱり落ち込んだ。
心理的な管理がまだ続いていると思い知らされる瞬間だったから。

それでも、目の前にいるわけじゃないから。
忘れて過ごすことだってできた。

私は、一種「糸が切れた凧」のような状態だったのだと思う。
今になって思い返すと、赤面するような、顔をしかめてしまうようなバカなこともたくさんやったものだ。

たまに、ふっと、母の作った料理を思い出したりすることもあったが、それは、刷毛でさっとなでたような軽いタッチの感情にすぎなくて、家に帰りたいと思うことはまずなかった。


自分も娘や息子を育ててみて、今になってわかることもたくさんある。
私の母は、それほどひどい「毒親」ではなかった。
いろんな本を読んでみて、「ここまではひどくないな」と思うことも多かったから。

それでも、私は長い間、自分を肯定することができず(今でもできているとは言いがたいが)、生きているのがしんどいと感じることをやめられなかった。

大学を卒業した時も、最初の結婚が破綻した時も、なんとなく「親元へ帰る」という選択肢は存在していた。周囲でも、そういう雰囲気はあった。
でも、私は帰らなかった。大学がそこにあったから、というだけの、それまでまったく縁のなかった静岡に居残ったのは、ただただ、実家に戻りたくなかった、という理由だけである。


「いっぷく」の中で、「母がしんどい人たちへの解決法」の一つとして、「親と距離を置く」という方法が上げられていた。
物理的にも心理的にも距離を置くこと。離れて住むだけでなく、丁寧な言葉遣いで心理的距離を置くのが効果的なんだそうだ。
こういうのって、たぶん、円満な親子関係で育って来た人には理解しがたいんだろうなあ、と思う。
何かといえば「親子なんだからわかりあえるはず」とか「愛情があるものだ」というけれども、どうしたって分かり合えない組み合わせというものが厳然と存在しているのである。

「分かり合えない」という言い方をすると、母と娘の相互の努力の問題になってしまうが、実はそうではない。
「母」の方が、「娘」を理解しようとしないのである。
娘は母親にわかってもらいたくて、あれこれ行動するのだが、母親の方は、自分に都合のいい解釈しかしない。
基準になるのは常に母親の価値観なので、その価値観に合わない行動をする娘は「間違っている」ことになってしまう。
だから母親は「親心から」「愛情を持って」「娘のために」、娘の行動や価値観を否定するのである。
そこにあるのは、ひたすら愛情なのであるが、愛情の主体が自分にあるために、結果的に娘を否定したり攻撃したりすることになってしまう。
「そんなことしちゃだめよ」「お母さんの言うとおりにしていればいいのよ」「あなたのことは私がいちばんわかっているんだから、私の言うことを聞きなさい」
これを、母親は心底愛情だと思って娘に向けて発するのである。

番組で流れた「母親側」の街頭アンケートでも、とある年配の女性が「娘のことをいちばんわかってるのは私よ」と力強く断言していた。そこにはいっぺんの疑いも見られなかった。
怖かったなあ。ああいう人が、何の疑いも持たずに、心底心配そうな顔で「結婚することが女の幸せなんだから、早く結婚しなさい」と娘の状況や心境にお構いなしに押し付けてくるのだ。


私と母の関係は、私が物理的に距離をとったことで、かなり好転した、と思う。
なにしろ、連絡さえとらなければいいのだし、たとえ電話口でぐっさりくるようなことを言われたとしても、電話を切ってしまえば、そこで断ち切ることはできる。多少立ち直るのに時間がかかるとしても、だ。
母だって、私が実際に目の前にいなければ苛立つことも減るし、なにより、言いたくなる機会も減るわけだから、お互いによかったのだ。そうやって、30年近い年月が流れたのである。

ところが、最近になって、また少し様子が変わってきた。
母の口から、今までに聞いたこともなかった言葉が頻繁に出てくるようになったのである。
「○○(私)が近くにいたら、~~だったのに」という言い方。
いただき物や、たくさん買いすぎてしまった食材、洋服、生活用品などを私に分けてやりたい、という話になると、以前ならさっさと宅配品や郵送などで送ってくれていたのだが、年をとってそういう作業が辛くなってきたらしく、「近くにいたら取りに来てもらうのに」と言う。高速道路を使って2時間くらいの距離なので、行って行けなくはないけれども……、と私は口ごもってしまう。
あるいは、夫(私の父)に対する際限のない愚痴。これまた、年をとるにつれてどんどん増えてくる。「年をとると我慢が効かなくなる」と母は言うのだが、近くに住んでいるのは弟なので、愚痴も言いづらいらしい。男に愚痴を言っても仕方ない、というのは、恋愛関係のみならず、親子関係においても同じなのである。
そういうときに、私に電話をかけてきて、愚痴る。私もたまのことだから、ふんふんと相槌をうって聞いてやるのだが、そういうときにも「○○(私)が近くにいたら、いつでも聞いてもらえるのに」という。

今はそうやって言うだけだし、母もさほど本気ではないのだろうが、それでも昔に比べれば電話の回数も増えたし、時間も長くなってきた。ここへきて私にそういう役目を振ろうとしているのだろうか、と思うと、ちょっと暗い気持ちになる。
母だって変わってきているし、なにより、年をとったのだ、とは思うのだが、それでも、実際に目の前にいたらどうなるかはわからない。母は悪気なく、本心から発言していて、それが私を傷つけている、とは夢にも思っていないのだから。

私は、このことについて表立って母に反旗を翻したことはない。自分の本心を母にぶつけたこともない。
ぶつける前に、離れてしまったから。
アダルトチルドレン関連の本を読んでいると、時に、親に向かって本心をぶつける、という場面が出てくる。
すごいぞ、がんばれ、と思い、ドキドキしながら読む。でもきっと私にはできない。

私が人に本音を言えないのは、親に本心をぶつけたことがないからなんじゃないかと思うことがある。
喧嘩できないのもそこに関係があるような気もしている。


母との関係はそのまま、自分が子どもを育てるときに投影されるのだ、ということを、娘を育てている時に実感した。
なんにも考えずに感情のままに行動していると、昔自分がされたこと、言われたことをそのまま子どもに向かってしたり言ったりしていることに気づいたのだ。気づいた時にはものすごい自己嫌悪に陥った。あんなに嫌だと思っていたのに、私は同じことを子どもにしている、と。
そこからは、意識して言動をコントロールしようと頑張った。言ってほしかった言葉を娘にかけ、してほしかったことを娘にした。
そう心がけた。今、娘がどう思っているのかはわからないが、少なくとも私よりは自己肯定感があるように見える。
それは嬉しい事なのに、実を言えば心の隅にはいつも「妬み」がある。ここがめんどくさいとこなんだなあ。
「あなたはいいわね、私に肯定してもらえて。私はそんなふうにはしてもらえなかったのよ」という恨みというか僻みが、変なときに顔を出したりするのだ。
虐待に走るとき、それがエスカレートするときって、もしかしたらこういう心理が関係しているかもしれない、とも思う。


「子ども」は「自分の一部」ではない、という、当たり前のことを、心底認識するのは意外と難しい。
特に、「お腹を痛めて産んだ」という、苦痛の記憶が愛情の担保になっているタイプの人は、無意識の内に「あんなに苦しい思いをして産んだのだから、私の思い通りに動いて当然」という気持ちを持ってしまいがち。そしてそれが「愛情」なのだと命名してしまう。
そうすると、子どもを自分の思い通りに動かそうとするのは、子どもを愛しているから、ということになるし、子どもを愛しているからこそ、子どもの幸せを願っていると思うからこそ、子ども自身の考えや行動を否定するということになってしまう。
毒親にはいろんなタイプがあるが、共通するのは「子ども=自分」という発想。
特に、母親は娘を自分と同一視する傾向があるから、似たようなタイプの場合は問題が表面化しないけれども、そうでない場合には娘がとても苦しむことになってしまうのだ。

子どもの言動を見て、「なんでこの子はこんなふうなんだろう」とイライラしてしまうようなら、それはタイプが違うということなのだ。そういうときは、そっと離れて、付かず離れずの付き合いをするようにしていくほうがいい。
親だから、子供のことはなんでもわかっている、という考え方はとんでもない思い上がりなのだ。そのことがもっと知られてほしいと思う。