かなしいきもち | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

とってもいい絵本なんだけど、どうしても読み聞かせで使えない絵本があります。

ひとつは、「おこだでませんように」っていう絵本。
主人公の男の子は、妹のためやクラスのみんなのためにいろいろがんばるんだけど、いつもうまくいかなくて、お母さんや先生に怒られてばっかりいます。
七夕の飾りを作ることになって、その男の子は短冊に願いを書きます。
ここで見開きいっぱいに短冊の絵になり、そこには「おこだでませんように」の文字が。
最初、なんだかわからなかったんですが、読んでみてわかりました。
彼は「怒られませんように」という願い事をするんですね。
で、その短冊を見て、お母さんや先生たちははっと気づく、というお話。
男の子はひたすら無心にその願いを書くんですが、そこがもう切なくて。

もうひとつは「ちょっとだけ」という絵本。
妹が生まれておねえちゃんになった女の子が主人公。お母さんは赤ちゃんの世話で手一杯になってしまい、おねえちゃんはいろいろ我慢することになります。その我慢してる様子も切ないんですが、最後にどうしても我慢ができなくなって、お母さんに頼むのです。「ちょっとだけ抱っこして」と。この控えめな願い。それに対してお母さんは、赤ちゃんを置いておねえちゃんをいっぱい抱っこしてくれるんですね。
ここで私はどうしても胸が一杯になって読めなくなってしまうのです。

この2冊、ふつうのオトナの人たちは「いいお話よねえ」とか「ほのぼのしてるわ」という受け取り方をするんですね。
私もそれはわかるんですけど、自分が長子であったせいか、あるいは絵本のような結末にはならないで育っていたせいなのか、身につまされるやらうらやましいやらで、どうしても冷静ではいられなくなるのです。


絵本を読むのは子どもの情操教育のため、というのが一般的な認識だとされています。
心を豊かにする、とか、想像力を育てるとか。
読み聞かせることで親子のふれあいができるとか、あたたかい思い出になるとか、いろいろなメリットがあるとされています。
読み聞かせの勉強を始めてからこういったことを知り、なるほどなあと思ってはいるんですが、いつもどこかでチラチラっとひっかかるものがあるんですよね。

「子どものために」とか「子どもたちが心豊かになります」などという言い方を聞くと、非常に狭量ではあるんですが、羨ましいなあ、いいなあと思うんですよ。私はそういう経験なしに育ってきたから。

私が絵本に触れたのは、娘が生まれてから。
自分が子どもの時には身の回りにはこれといった絵本はありませんでした。
気がついたら、文字ばかりの本を読んでましたし、親に読んでもらったという記憶はありません。
絵本もなし、もちろんわらべうたもなし、そもそも、母親にかまってもらったという記憶があんまりないんですね。
それは、実際に母が私に構わなかったからなのか、私が記憶してないだけなのかはわかりません。
でも、娘のために絵本を読もうとした時、若干戸惑いを覚えたことは確かなんですよね。
「これって、どこをどう見ればいいの?」って。
文字は少ないし、書いてある内容もシンプル、というか単純なものが多いし、絵を見ると言っても、いわゆる「絵画」ではないので、どこをどう見たらいいのか見当もつかなかったのです。
だから、私の中では、絵本というのは幼い子向けの、しごく単純でつまらないもの、という存在だったのです。

赤ちゃん絵本から始まって、小学校に入るくらいまでは絵本も読んでやりましたが、いつも退屈でした。あ、娘は喜んでたと思います。でも私は退屈でした。同じ本を何度も読まされたのも苦痛でした。
あのころは、子どもと絵本の関わりについて、まったく知らなかったのです。

その後十数年たって、息子が生まれて、彼にも絵本を読んでやりました。
このあたり、やや義務感が先立っていたように思います。
「子どもには絵本を読んでやらなくてはいけないのだ」というような義務感。
だから、やっぱり楽しくなかったし、いわゆる名作と呼ばれる絵本についても全く無知のままでした。

息子が小学校に入ってから、突然読み聞かせに目覚めたんですが、そのときに愕然としたんですよね。
私はまったく絵本について無知である、と。
他の人が「ああ、○○ね」と当然のごとく口にする題名に聞き覚えがなく、もちろん読んだことも(読んでもらったことも)なく、知らない絵本ばかりでした。
みんなどうしてそんなにいろんな絵本のことを知っているんだろうと不思議に思うくらいでした。
ロングセラーと言われるような絵本ですら知らなかったんですよ。

そのせいか、選書するのにとても苦労しました。
なにしろ基準がないんですから。何がいいのか、どういうものを選ぶといいのか、皆目見当がつきませんでした。

読み聞かせ講座に行って、まず言われるような選書の基準、「しっかりとした絵ときちんとした言葉で書かれた絵本」というのが、実は未だにピンと来ないのです。言葉の意味はわかっても、実際にはどういうものがそれに該当するのかがよくわからないのです。
よくない方の例としてあげられる「甘ったるい絵本」というのも実はよくわかりません。
私の中にある基準は「おもしろいかどうか」だけ。だから、「よい絵本」の例として挙げられるものでも、いいと思えないことがよくあるんですよねえ。

「なんでもいいのよ」という人もいます。「子どもが楽しければそれでいいんだから」と。
その一方で「子どもに媚びるようなものはよくない」という人もいて、私は迷いっぱなしです。

そんなふうに迷う時にいつも思うのが、「私には過去に絵本を読んでもらった経験がない」ということなんですね。
あまりにも「子どもに絵本を読んでやるのはよいことだ」と強調されると、じゃあ、読んでもらえなかった私はだめなのかな、という気持ちになってしまうのです。
今日もちょっとそんな気持ちになる出来事がありました。
私には、素晴らしいと言われるような絵本との付き合い方も受け取り方もできない、と思うと、ひどく悲しい気持ちになりました。

まあ、ねえ、人それぞれだから、とは思いますよ。
何をどうしたって過去は取り戻せないし。今からでも絵本に触れていけばいいじゃないか、とも思います。
でも、絶対的に基準がなくて、しかも、周囲の人たち(特に読み聞かせをしているような人たち)とは基準がずれてるのが明らかだと、時々不安になります。

読み聞かせ関連の講座に行くたびに、いつもほんのりと哀しい気持ちになります。
私には読み聞かせをする資格がないんじゃないかなあ、なんて考えてしまうから。
そのうちに立ち直るんですけど、そのたびに、傷口に無理やり絆創膏を貼り付けてるような気持ちになります。
絆創膏ばかりが増えていく気がするなあ、と思った一日でした。