過剰 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

熱い、というのは、過剰である、ということだ。
平常時よりも温度が高いから、熱量が多いから「アツく」なる。

私は自分で思っているより「熱い」のかもしれない、と最近思う。
若い頃は「熱い」人が嫌いだった。苦手だった。
押されてしまって、どんどん冷めていく感じがしてた。

そのくせ、たとえば「夢」に向かって必死に生きてる人とか、困難な状況に立ち向かって頑張ってる人はすごく好きで、あこがれを持っている。

どう違うんだろう、と考えてみた。

私が苦手な「熱い人」というのは、その人の主義主張や価値観を、ぐいぐい押し付けて来るような人なんだな。
「お前もそう思え」と強要してくる感じが嫌なんだと思う。
でも、その人が自分のために頑張っている姿は、なにもこちらに押し付けてこない。ただ、自分がそうしたいからそうしてるんだ、という淡々とした佇まいである。
そういう姿にはとても心打たれる。
だから泣けちゃうのかもしれないな。

自分が嫌いなものには、自分が現れる、という。
ということは、つまり、私は自分が「押し付け型」の熱い人間だから、同じようなタイプの人が嫌いだと思うのだろう。

今日、そのことに、ハタと思い当たったのだ。

「こんなにすごいんだよ」「こんなに楽しいんだよ」「こんなに面白いんだよ」と、ぐいぐい、ぐいぐい押し付けるように表現したら、そりゃあ鼻白む。
どれだけ上手に表現しようが、どれだけ熱意を込めようが、どれだけ心を込めようが、そんな表現は暑苦しく、うざったい。
でも私は、なんとか伝えようと熱望するあまりに、やりすぎてしまうことが多いのだ。

だから、営業もうまくいかないのかもなあ、なんてちらっと思った。
いいと思うと、押し付けがましくなってしまうんだよね(笑)


「演劇」と「読み聞かせ」と「ストーリーテリング」と「朗読」、そして「紙芝居」
これらはみな、人に物語を届ける、という点で共通しているが、その表現方法には違いがある。
ということが、最近具体的に見えてきた気がする。
基礎的な部分は同じでも、その上に重ねるものが少しずつ違うのだ。
でも、その違いをちゃんと認識して使い分けるのは、なかなか難しい。
何度やっても完璧ということはなくて、常に精進していくしかない、というところも同じだな。

私は、私の中にある「過剰」をどうコントロールしていくか、が課題なんだなと思った。