我慢の結果 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「小学校にエアコンを設置するかどうか」についての議論が新聞に載っていました。

反対派の方の論拠はたいていいつも同じ、「昔はそんなものはなかったし、子どもには我慢を覚えさせなくてはいけない」というものです。

今ある進んだ技術を使ったものを子どもに適用しようとすると、必ずといっていいほど、「昔はそんなものはなかった=今の子どもにも必要ない」という意見が出てきます。
これがほんとに不思議で。
どうしてそういう話になっちゃうのかなあ。

昔、小学校にエアコンが設置されていなかったのは、そもそもエアコンが普及していなかったからで、エアコンによる快適さを知らなかったために、現在からみたら「我慢している」ように見えるだけの話。
もし、「昔と同じように我慢すべし」というなら、すべての条件をその「昔」とやらと同じに戻してから言ってほしいものだと思います。

毎年のように異常気象だといい(もうすでにそれが平年並みとなってもおかしくないくらい)、人口増加や、ヒートアイランド現象で全体の気温が上昇傾向にあります。
小学校の建物は築年数が古いものも多く、快適さとは程遠い状況にあることが多いものです。
学校以外の場所では、適宜空調設備を使って、少しでも快適に過ごせるように工夫されているというのに、学校だけは旧態依然として、不快な環境のままです。
そんな中で、子供たちに勉強せよ、人間関係について学べ、というわけです。

世界にはもっと過酷な環境だってあるのだから、という「犠牲の累進性」が使われることもあります。
こういうのって、日本の恵まれた状況を非難したい人がよく使う理屈ではあるんですが、世界中に悲惨で過酷な状況があるからといって、どうしてそこを基準に考えなくてはいけないのでしょうか。
そういう過酷な状況は改善していくべきで、その改善の方向は当然「平和で、快適」だと思うんですよね。
それなのに、「ひどい状況」の方に合わせろというのはおかしな話です。


私がもっとも不思議なのは、そんなふうに今の子どもたちに我慢を説く人自体が「我慢の子供時代」を過ごしてきたということです。
我慢を経験せよ、というのは、将来のことを考えてのことだと思うのです。子どもの時に我慢を経験していないとろくな大人にならないよ、といいたいのでしょう。
じゃあ、その「我慢を経験してきた」というご本人たちはどうなのでしょうか。
我慢を経験してきた結果、「今の子どもは我慢をしないからよくない」と文句を言う人になっているのだとしたら、その人のしてきた「我慢」っていったいなんの役に立っているんでしょうか。
子どもの時にさんざん我慢してきたのだから、人間ができていてもよさそうに思うんですけども。


私は、自分が子供の頃にはエアコンなんてものは一般的ではなかったもんですから、未だに自宅でエアコンを使う時に、なんとなく後ろめたいような、申し訳ないような気持ちになります。
昔は贅沢品だったんですよ。デパートなどの施設にいかないと味わえなかった「冷房」を、自宅で気軽に味わえるということに、未だに慣れない。
高齢者がなかなかエアコンを使いたがらないのは、つまりは「不慣れ」だからなんですよね。
昔は不便で不快な状況を耐えしのぐしかなかった。なのに今はリモコンひとつで非常に快適な状況を作り出せる。その落差に耐えられないのです。理屈じゃなく、感覚として「もったいない」と思ってしまう。状況の変化を冷静に判断できないから、「昔はこんなもの使わなかった」という記憶だけで、暑さに対応しようとしてしまう。

ところが、エアコンが普及してから生まれて育ってきた人たちは、ごく当たり前のように「冷房」を使う。当然のように快適さを享受して、感謝したり、申し訳なく思うこともない。
昔は子どもだからといって配慮されることなどなかったのに、今の子どもはいろいろな配慮を受けられる。ずるいではないか。暑さなど我慢すればいいのだ。私たちだってつらい思いをしてきたのだから。

と、こんな心理が隠されているんじゃないかなと、思うんです。
不快指数の高い教室で勉強することが、人間形成にプラスになるとも思えないんですけどね。

実際、小学校の教室ってとても不快です。
夏はいらいらするくらい蒸し暑いし、冬は攻撃的になるほど寒い。
学校側が強制してくる制服では、暑さ寒さを調整することはできず、なぜか小物にも規制をかけてくるので、「快適に過ごす」という訓練はまったくできません。
ああ、「不当な状態に耐える」という訓練はできるかもしれないですね。
理不尽で不当な状態に黙って耐える、黙ってしのぐ、という訓練は、おそらく社会に出るための予行練習なのでしょう。
我慢を学んだ子どもが成長してつくる社会は、他人に不当な我慢を強いる社会です。
「社会に出たらもっと過酷な状況になる」というのを、子供時代の我慢の理由に上げる人もいますが、社会が過酷であるという状態を改善しようという方向へは頭が働かないんでしょうかね。
我慢ばっかりしてきたから、そんなことは思いもつかないのかもしれません。

何かを我慢するには、正当な理由が必要だと思います。
教室の夏の耐え難い暑さを我慢することに、どんな正当性があるのでしょうか。


なんかねえ。
「エアコンを使って快適な状況にする」というのを、「野放図にエアコンをがんがんかける」というふうにイメージしてるんじゃないかという感じがしてならないんですよ。
おじさんたちがよくそんなふうにエアコンを使ってますよね。体温が高いのか、夏なのにスーツを着ているからなのか、とにかくとんでもなく低い温度設定で「野放図に」エアコンを使う。
そういうイメージがあるから、「小学校のすべての教室にエアコンを設置してほしい」という要望に対して、「そんな野放図で享楽的なことを子どもにさせるわけにはいかない」と思ってしまうんじゃないでしょうか。

他人に対して「我慢することを知るべき」と言いたくなるときというのは、実は自分の中に「不当である」という怒りが隠されていることが多いのです。
他人が何かを要求することが許せないとき、「もっと我慢すべきだ」と言いたくなります。
「私」はそれを要求することができなかった、要求しても叶えられなかった、という思いがあると、同じようなことを言う他人に対して、自分と同じような思いをするべきだ、という気持ちが生まれるのです。
あるいは、自分が辛く苦しい体験をしてきた、という自覚があると、他人にも同等のことを要求するようになります。「私にだってできたのだから、あなたにもできるはず」という言い方で、相手に圧力をかけるのです。
どちらも底にあるのは、「妬み」です。自分だけが不利益を被るのは許せないんですね。


「快適に過ごすこと」を敵視するのはそろそろやめにしたほうがいいんじゃないでしょうか。
動物だって、快適に過ごせるならそちらの方を選ぶのです。
ひどい状況に耐えているのは、それしかないからです。その状況が改善されるなら、そのほうがいいに決まってるのです。
逆戻りしてひどい状況にあえて身を投じるのは人間だけでしょう。でもそれは「動物」としてみたら愚かな行動なのです。子育て関連では盛大に「動物を見習え」というのですから、それ以外の行動だって、動物を見習ってもいいんじゃないですかね。