大人ってなんだろう | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

シナリオを書くときに、いつも年齢設定に困る。
自分が書きたい物語に登場する人物が、いったい何歳なのか。
年齢設定によって言動に違いが出てくると思うからなのだが、これが実に難しい。

私が書いたシナリオでは、たいてい「人物が年齢のわりに幼い」という感想が出る。
20代でも、30代でも、40代でも、だ。
まあ、書いている私の精神年齢が低いから、というのがいちばんの理由なのかもしれないのだが、それでも一応、リサーチはしてるのだ。
新聞やネット、映画やドラマなどで、その年代の人間がどういう言動をとっているか、ということに注意を払っている。
昨日提出した作品では、40才の男性を登場させた。でもやっぱりちょっと幼いと言われてしまった。

40才といえば「不惑」である。世間的にはそれなりに大人であると認識されるであろう年齢である。
でも、今の40才は、たぶん、1970年代や1980年代のころに40だった人たちに比べたらずっと若い。
だって、キムタクが40過ぎてるんだよ?
彼と「不惑」のイメージは、ずいぶんかけ離れているように見える。

そりゃ、あの人だって、個人的に見れば20代のころとは中身は違ってきてるとは思うけれども。
「HERO」で演じている検事を見ると、世間的に言われている「不惑」のイメージとはだいぶ違うと思う。

年齢とか年代というのは、常に「現時点での」という保留がつく。
ある特定の年齢になると自動的にその年齢にふさわしい人間に変身するわけではない。
子どもを産んだら自動的に「完璧な母親」に変身できるわけではないのと同じで、どんな人も、それまでの人生をひきずって、その延長線上で生きてる。
ある人の価値観を形成するのは、その人が子どもから思春期を過ごした時代の影響である。
イケイケドンドンの時代に思春期を過ごした人間は、イケイケドンドンの価値観を持つ。それがプラスの方向なのか、マイナスの方向なのかの違いはあるけれども。
その価値観で、違う時代に育った人間の行動を見たら、そりゃ文句も出るだろうと思う。
「どうして、自分たちの若いころと同じように行動しないのか。若者というのは◯◯なものなのに」という批判を持つ。
車に代表される消費行動の違いにしても、恋愛を始めとする人間関係の構築、運営の仕方の違いについても、批判の基準は「自分たちの若いころ」である。

最近よく目にする「私たちは若い頃にはいろいろ苦労してきた。今の若いものはそういう苦労をしないからけしからん」という説。
あれはたいていが的外れだよなあ、といつも思う。
今朝の新聞の投稿欄でも、まさに60代の女性が、「今の若い人は我慢をしないからよくない」という主旨の投稿をしていた。
ファミレスでおしゃべりしている学生を見ては「私たちのときは、たまにデパートの食堂に連れて行ってもらうくらいで、ふだんは駄菓子屋で一つ二つお菓子を買うのがせいぜいだった」とか、単身赴任を嘆く人に「自分は親の都合で何度も転校させられたものだ」とか、夏休みに子どもを遊びに連れていけないと嘆く人に「親は子どものために働いているのだと教えるべき」などと言う。
もっと子どもを我慢させるべきだ、という意見だったのだが、そうやって我慢して育ってきた投書主が、今になって我慢していないように見える人たちに不満をぶつけているのだとしたら、その人がしてきた我慢の効果ってなんなのだろうと思う。
いったいなんのために、どうなるために「子どもには我慢をさせよ」というのだろう。
昔はものがなかったから、必然的に我慢せざるを得なかった。その我慢が必要なものだというなら、なぜその我慢を解消する方向へ社会が進んできたのだろうか。
ずっと不便なままでいてもよかったのに、その不便をことごとく解消すべくみんな頑張ってきちゃったのではないのか。

その結果、便利になったり、いろんな対策がとられるようになってきて、その時子どもである人たちがその恩恵を享受しているにすぎない。
なのに、その姿を見るとなんか気に入らないと思ってしまうんだな。

結局、「ひがみ」なんじゃないのか、と思ってしまう。
親からの愛情を受けずに育った人が子どもを育てている時、ふと、自分の愛情を一身に受けている我が子をみて、それはその人がそうしようと思ってしているにも関わらず、一瞬憎らしいと思ってしまうのと同じだと思う。
「あんたはいいよね、あたしに大事にされて。あたしはお母さんにこんなふうにしてもらったことなんかないよ」という一瞬の妬み。
逆恨みというか八つ当たりだということは重々承知していても、ふと、自分と我が子の待遇の差にイラッとする。
そういう感情の動きに似たものを感じるのである。団塊世代の若者批判を見ると。


フィクションの中の人物描写についても、これと似たようなことがあるんじゃないかと思うのだ。
(私の技術が追い付いていないということは、とりあえず棚に上げて)
今のドラマで、30代40代の人たちの言動をどう描くか、ということを考えたときに、実際にその年代の人たちは10代20代とたいしてかわらない言動をとっていると思ってそのように書くと、「ちょっと幼すぎないか」と上の年代の人たちに言われてしまう。
私が書くと幼い、というよりは、現実に今の30代40代はそんなふうなのだ、と思う。

幼い、というとなにやら良くないことのような響きがあるけれども、「若い」と言い換えたら、まさにそれは現代の価値観じゃないかと思う。
だって、今の世の中「若いこと=正義」である。
アンチエイジングなんてその最たるものだし、女はもとより、男だって若いほうがいいと思われている。
20代の後半で「おじさん」扱いっていうのは、決して成熟をよしとしている価値観ではないと思うよ。

今の日本社会は幼稚化していて、それは人々が無意識のうちに成熟拒否をしているからだ、というコラムを読んだ。
当たり前じゃないか、と思った。
30代の議員さんたちの失態が取りざたされてて、「まったくなっとらん」と頭を振っているような内容のコラムだったけれど、成熟を促すような風潮なんて、いつの間にかなくなってしまっている以上、30を越えようが40を越えようが、中身は若いまま、つまりは子どものままでいるに決まっている。
成熟していくためには、挫折や失敗を繰り返し、そこからいろんなことを学んでいくしかないのだが、失敗や挫折を繰り返すことができるような社会ではなくなっている。
学校生活に適応できなかったら転落。大学を卒業できなかったら転落。大学を卒業しても就職できなかったら転落。就職してもそこがブラックだったりしたら(人を使い潰すことが試練だと勘違いしている経営者が多いから)転落。
転落したら容易に這い上がれない。
「本気になればなんとかなるはず」とか「その気があったらどうにかできるはず」なんていう根性論がまかり通っているが、その根性論の根拠といえば「私はできたから」という超個人的な体験談のみ。
「私にだってできたんだから、あなたにできないはずはない」という、一見謙虚なようで、その実ものすごく横暴な主張に対抗するのはとてもむずかしい。
私にはできません、というと、「そんなことないでしょ、だってあたしみたいな者にだってできたんだから」と、卑下しているように見せかけて相手に圧力をかける。
自分と他人の区別がつけられない、悪平等の価値観に染まっているのである。

「友だち百人できるかな」とか「誰とでも仲良くしなくてはいけない」とか「争いはよくない」「みんな平等に」という価値観が主流になった時代に育った人たちが、「大人」になるのはとてもむずかしい。
友だちを百人作れるかどうかで人の価値は決まらないし、誰とでも仲良くできるわけじゃない。時には争ってしまうし、結果の平等は違う差別を生み出してしまう。
現実と理想があまりにもかけ離れた状態で、いったいどうやって「大人」になればいいのだろう。

学生運動をしていた人たちのように、時期がきたらきれいさっぱり足を洗って、口をつぐんで、すべてを水に流して知らん顔してしまうのが大人のやり方なんだろうか。
そして「若さ」を信奉し、加齢にあがき、そのくせ、若い年代の人たちのことを妬んでいれば「大人」なのか。

大人になれ、と一口にいうけれども、モデルにするべき「大人像」がどこにもない。
もうずっと前から、「大人」なんていなくなってるんじゃなかろうか。ただ、誰かの想像の中に存在するだけで。

私自身も、自分が大人だとは思えないでいる。年だけ無駄にくったけど、中身が高校生くらいで止まってると思うときもある。
そういう私が書くから、シナリオの中のキャラクターが「幼い」と言われるような言動になってしまうのかなあ。

TBSの日曜劇場で「おやじの背中」という一話完結のドラマシリーズをやってる。
ずっと見る気になれないでいたのだが(番宣を見ても全然「おやじ」に魅力を感じなかったので)、先日、木皿泉さんが脚本を書いた「ドブコ」を見た。
録画しておいたものを深夜一人で見たのだが、どういうわけか涙があふれて困ってしまった。
決して泣かせるようなドラマではないのに、あちこち、ヒリヒリするセリフや展開が多くて、心が震えてしまったのだ。
このドラマでは、遠藤憲一さんが父親役をやっていた。悪役、切られ役専門の役者という設定だったのだが、キャラクターのギャップの描き方がとてもよかったのだ。
これはもう、エンケンさんの存在ありきだと思ったのだが、悪役が似合うちょっと怖そうな容貌にも関わらず、性格はとてもお茶目で可愛らしい。
一生懸命ヒーローにやっつけられたり、主役に斬られたり、撃たれたりして仕事をしているが、プライベートでは、娘と買い物に行き、かき氷アイスを食べ、妻を「ママ」と呼ぶ。
堀北真希さんが演じた娘が、警官として働いているので、年齢設定はおそらく50前後か。娘が20代半ばだとするならそれくらいだ。
シナリオの課題で、あんな50男を書いたらどう言われるだろう。「ちょっと行動が幼くないか」と言われそうな気もする。
でも、私は見ていてとてもリアリティがあるなと思ったのだ。むしろ、それまでのドラマに出てきた団塊世代の父親たちの方がうそ臭く思えたくらいで。
もちろん、木皿泉さんの脚本なので、要所要所でぐっとくるセリフが入る。入るけれども、私が知っている60代の人たちが言いそうなことも脳裏をよぎったことは確かである。曰く「軽い」「ちょっと幼稚」などなど。

年齢とキャラクターの関係はとてもむずかしいといつも思う。
でも、逆に考えれば、年齢で区切る必要はないのかもしれないとも思う。
年は若くてもしっかりした考え方の人もいるし、年をとっても軽佻浮薄な人はいる。
むしろ、今の時代は若いほうが堅実な人が多いかもしれない。それくらい厳しい世の中だから。
年だけとって、若いころの夢が忘れられない人の方が始末におえないかもしれないな(笑)

「大人」ってどういう人のことをいうんだろう。
どんどんわからなくなっていく。