忘れなければそれでいいの? | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

今から29年前。
私は大学を卒業して、司法書士事務所で働いていました。
司法書士補助者ってやつで、司法書士先生のかわりに申請書類を作成したり、法務局へ登記簿の閲覧に行ったり、登記済の書類を取りに行ったり、銀行へ書類を届けたりしていました。
役所や銀行はお盆でもお休みにはなりません。ですから、司法書士事務所も基本的にはお休みにはならないんですが、まあ、交代で休みをもらえることになりました。あ、もう一人補助者の人がいたんですよ。

お盆休みは3日間でした。
私はふと、「一人で旅行してみよう」と思い立ちました。
一人で宿泊を伴う旅行をしたことが、それまで一度もなかったので、行き先はよく知っているところにしようと思いました。
選んだ行き先は、伊勢、鳥羽。小さい頃に住んでいたこともあるし、何度も行ったことがあるんですが、すごく好きな場所なのです。

伊勢の駅前にあるビジネスホテルで連泊。
なぜか伊勢駅前の商店街の中にある映画館で、ジャッキー・チェンの映画(「五福星」でした)を見たり、鳥羽水族館(新しくなる前の水族館です)に行ったりしました。

12日の夜は確か1泊目だったと思います。
部屋のベッドに寝転んで、観るともなしにテレビを眺めていました。
そしたら、ぱっと速報が入ったんですね。
「日航機墜落か?」みたいな。
でも、そのときは「へえ、怖いな」と思っただけでした。

後に、いろんなニュースを見て、その凄惨な事故の様子に驚いたのですが、でもやっぱりどこか他人事でした。直接の知り合いがいるわけでもなく、自分が飛行機に乗ることも現実味がなかったですからねえ。単なる一飛行機事故でしかなかったのです。

坂本九さんがその事故で亡くなったんですよね。それもまた、私にとっては、一つの芸能ニュースにすぎませんでした。


飛行機は落ちる。落ちたら大事故になる。
私の認識はその程度です。

あの悲惨な事故を忘れないで、と言われます。今日もテレビで検証番組(?)をやってますね。
完全に忘れることは、私はないと思うんですけど、私が覚えていても、別に事故予防には結びつかないと思うんですよね。

忘れないで、覚えていて、という訴えを聞くたびに、覚えていることはできるかもしれないけど、で、どうしたらいいんだろうか、と思うのです。
ああいうのは、いったい誰に向けて言ってるのでしょうか。
つい、自分に向けて言われているような気になってしまって、「私が覚えていることにどんな意味があるんだろう」と考えてしまうんですよね。

覚えていて、飛行機事故に気をつけるとなると、できることは「飛行機に乗らない」くらいしか思いつきません。後ろの方の座席を取ると言っても限度があるでしょうし。

こういう感じって、戦争体験を聞いたときにもなるんですよね。

戦争体験といっても、実際に戦地に行った方の話を聞けることはまずなくて、例えば疎開だとか、空襲だとか、食料統制だとかの苦労話がほとんどですよね。
みなさん、それぞれに、さまざまな苦労をされているわけですが、それってつまりは、「どこか知らないところで起きている大きな災害のせいで、被害を受けた」という話なわけです。その被害内容について語り伝えようとしているんですね。
もちろんそれも大切なことだと思うんですけど、でもどれだけ被害状況を個別に、仔細に知っても、それだけで戦争を防ぐことはできません。
戦争というのは、起きる前の情勢が重要なのですから。

「あの戦争でこれだけの被害を受けた」という事実は忘れてはいけないことなのでしょうが、忘れないだけでいいんですかね。
なぜそうなったのか、どうしてそういう状況へ進んでいったのか、何が要因だったのか、防ぐとしたらどうすればよかったのか。
そういう具体的な対策についても検証し、語り継いでいったほうがいいと思うんですけどね。

飛行機事故については、たぶん、事故後のあれこれが問題だったんじゃないか、と思うことがあります。
報道のあり方とか、事故の検証の仕方とか、救助に関するいろんなこと、とか。
そういう点でたくさんの反省点があったんじゃないでしょうか。
それは忘れてはいけないし、むしろ積極的に検証を続けて、あとに引き継いでいかなくてはいけないと思います。

ただねえ。
情緒的な問題は、どうなんでしょうか。
事故で大切な人を亡くした方たちの哀しみが消えることはないでしょうし、怒りも消えないでしょう。
でも、それもまた共有しなくてはいけないことなんでしょうか。

どうもね、こういった事故の被害者の遺族の方や、戦争の体験者の方たちの扱われ方が、あまりにも情緒的すぎるような気がしてならないんですよ。
辛い、苦しい、悲しい、悔しい。そういう感情だけがクローズアップされて、共感を強要されているように思えてなりません。
悲しいのは悲しいんだろうけど、それとは別に、事実関係や原因究明は粛々と進められてほしいと思うのです。
一緒に泣いて、「悲しいよね。忘れないよ」というのは、言ってる方は気持ちいいかもしれませんが、再発防止にはあまり意味がない。
ほんとに悲劇を繰り返したくないと思うなら、冷静に原因を探り、対策を講じる方へ向かった方がいいと思います。