子どもの時間と大人の時間 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

午後から芝居を観に行ってきたのですが。

開演を待っているとき、劇場の外でピーピーと笛の音がしました。
どうやら子どもがおもちゃの笛を吹いているようす。
そんな小さい子も来てるのかしら、と一瞬不安になりました。

今日行った劇場は、もともとはメッキ工場の作業場でした。
それを買い受けて中を芝居の稽古場兼劇場にしたところなのです。
だから、「劇場」という言葉から受けるイメージとはちょっと違うんですね。
防音とか設備的なことで。

だから、薄いドアの向こうで(もしかしたら開いてたのかもしれません)子どもが笛をピーピー鳴らしているのがよく聞こえたんだと思うんです。

幸いなことに、開演の時には笛の音は聞こえなくなりました。
どうやら、子どもは中には入って来なかったようでした。

芝居が始まるのを待っている間、「子どもが体感している時間の感覚」と「大人が体感している時間の感覚」の違いについて考えていました。

アマチュアの劇団にはたまにあることなんですが、乳幼児を連れて観劇している人がいます。身内とか知り合い、友人とかなんでしょうね。
親は出演者と知り合いだし、出演者はその子のこともよく知ってる。だから一緒に見ましょうというふうに親は思いがちです。

でも、子どもにとってはまったくいい迷惑なんじゃないかと思うんですよね。
だって、子どもの視野は、物理的にも比喩的にも、大変狭いのです。時間の観念もまだできあがっておらず、せいぜい数分後のことくらいまでしか考えられません。いや、未入園児くらいだと、数分先もむずかしいかもしれません。彼らにあるのは常に「今、この瞬間」だけ。

子どもの目線で考えてみると。
まず、親がお出かけだよといって自分を連れ出します。車に乗って、おもちゃで遊んだり、たまには外を眺めたりしているうちに車が止まって知らない場所に降ろされます。
そしてまた移動して、とても広くて椅子がたくさんある部屋に入ります。人もたくさんいて、薄暗いところです。最初はその光景やら、バタンバタン動く椅子が珍しくて遊んでいます。
広いところなので、走りたくなるんですが、走ると親がひどく怒ります。
そうこうしているうちに、強制的に座らされ、あたりが暗くなります。
周囲の椅子には見知らぬ大人がぎっしり座って前を向いています。そちらを見てみると、なんだか明るいところで動いたり喋ったりしている人が見えるんですが、何をしているのかはまったくわかりません。テレビのようでテレビではなく、なんだか周囲が異様な雰囲気になっています。突然大きな声が聞こえたり、大きな音がしたり、ピカピカ光ったり急に真っ暗になったりします。いったいどうなってしまったんだろう。何をしてるんだろう。なんだか怖いし、もうおうちへ帰りたいよ。

とまあ、こんなふうに思っているのではないか、と想像しています。
子どもにとっては、大人である親が考えていることを同じスケールで受け取ることなんかできないのです。

大人目線からしたら、そういう「公共の場」に子どもを連れてきたら、ふるまい方についてきちんとしつけるべきだということになるでしょう。
電車などの乗り物にしてもそうですし、スーパーなどの施設でもそうです。
子どもがどう思うか、ということよりも、大人の都合を教え込み、都合よく振る舞えるようにしつけるのが親の務めということになっています。だから、騒ぐ子どもを見ると、顔をしかめたり舌打ちしたり、時には「最近の若い親はしつけもできないのか」と非難したりするのでしょう。


今日、劇場の外で笛を吹いていた子どもにとっては、中で何が行われているのか全然わからなかったでしょうし、中で流れている時間とはまるっきり違った時間の流れの中にいたんだろうなと思います。
大人になるということは、時間を総体的に把握できるようになるということです。
今やっていることが、自分の人生の中のどういう位置にあるのか、この先はどういうふうになっていくのかを、ある程度は把握できるようになるのが大人です。
芝居は1時間半。ということは、3時には終演なんだな、とか。その1時間半はここでじっと座って、目の前で展開する芝居を見ることになるのだ、とか。
そういうこと(ちょっと未来のできごと)を想定して納得するのが、大人の時間ということなんですね。

いつもは漠然と感じていたことなのですが、今日、開演前に笛を吹いている子どもがいたことで、「なるほど、こういうことか」と妙に納得できました。
子どもはね、まったく別の世界を生きてますよ。