刷り込み | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

2007年以前、私の人生には「インターネット」は存在していなかった。

そういうものがあるらしい、ということはうっすら知ってはいたが、おそらく生涯私とは縁のないものであろうと思い込んでいた。
よく知らない「インターネット」とかいう世界では、情報が錯綜し、搾取され、よくわからない相手に攻撃されるというような恐ろしいことが日常的に行われているようなイメージを持っていた。
「ネットでお買い物」をしようものなら、クレジット情報を抜き取られて勝手に銀行からお金を引き落とされたり、買ったものが届かなかったり、意味不明な請求が来たりするんだと思っていた。

まあ、それは無知による妄想に過ぎなかったわけだが。
(ただまったくそういうことがないわけでもない、ということも後に判明する)

家を建てた時にも、「ネット回線どうします?」と聞かれて、「ああ、うちは一切ネットはしないんでいらないです」とあっさり断った。まさかその数カ月後にmixiを始めることになろうとは、その時は夢にも思わなかった。


さて。
2007年当時、まだまだmixiが元気であった。(だから誘われたのだが)
パソコンを購入し、ネットに接続し、mixiのアカウントをとった。
繰り返すが、そのころ、私はインターネットに関してはまるっきりの赤子状態だった。
だから、あるサイトに登録する、ということの意味がよくわからなかったのだ。
何かのサービスを使おうとするとまず「登録を」となる。
そのページには必須記入事項が並んでいて、名前だの住所だの生年月日だのを入力することになっている。
もう一度繰り返すが、その当時私は「インターネットとは魑魅魍魎が跋扈する恐ろしい世界である」という認識を持っていた。
そんなところに、うかつに個人情報を書き込んだらどうなるものか。まったく想像もつかなかった。ただただ、漠然とした不安と恐怖だけがあった。

mixiの登録ページでユーザー名を決めるとき、一番最初は本名を入れた。
すると友人から「そういうところには本名は使わないほうがいいよ」とアドバイスされた。
何があるかわからないから、ネットでは本名は極力伏せておいた方がいいのだ、という。
なるほど、そういうものか、と思って、非公開になる設定のところは仕方ないが、公開される事項については、極力曖昧にぼかした表記を心がけるようにした。
場所、年齢、性別、そして氏名。

昔、小説家に憧れていたころ、ペンネームというのにも憧れていた。
現実のしょぼい自分じゃない、なにか別の人になれたような(今思うと安直な発想だけど)、そんなワクワクがあったのだ。
ネットでハンドルネームを使うようになったとき、そのことを思い出した。
だから私にとってハンドルネームとは、匿名という意味はあまりなかったのだ。

mixiを始めてから半年くらいたって、ブログを始めた。
その時には、すっかりハンドルネームの使用に慣れていて、むしろそっちじゃないと落ち着かない気持ちになっていた。
私にとっては、インターネット上での名前はハンドルネームの方が当たり前になっていたのだ。

もちろん、リアルでの知り合いの中には、片山るんと現実の私の両方を知っている人もいる。あえて私が知らせた人たちで、そういう人たちにはネット上の私(が書いているもの)を知られてもいいかな、と思ったからだ。
仮想空間のみの知り合いの場合、あえて本名やらなにやらを暴露したところで、お互いになんのメリットもないと思うから、だから常にハンドルネームで通している。


そんなふうにして、本名とハンドルネームを使い分けて7年たった。
気づいたら、ネット上で実名を出す人が増えてきてる。
フェイスブックがそうだ。
私の知り合いでも、mixiからフェイスブックに移行した人がたくさんいる。(というか、まあmixiは廃れてきてるのかもしれない。)
今はフェイスブックがデフォルトになりつつあるのかもしれない、とも思う。
ツイッターも本名で使ってる人もいるしなあ。

でも私はフェイスブックを使っていない。
その理由を考えてみると、最初の刷り込みが大きいんじゃないかと思うのだ。
つまり、「ネットには本名を出すべきじゃない」っていう刷り込み。
刷り込みだから、もう理屈じゃないんだろうなあ。感覚的に嫌っていう。
現実の世界では、否応なく本名で存在してしまっているから、言動にそれなりの制限がつく。
この外見で、この所属で、この状態でものを言ったり行動したりするわけだから。
このブログで常日頃書いているようなことは、ごく限られた人にしか話せないことだったり、なかなか普通には話さないことだったりする。そういうのは、やっぱりこのハンドルネームで、この場所で語ることしかできないのだ。

現実の生活って案外狭くて、会える人も限られるし、話す時間も限られる。
ふつうに暮らしてたら、自分が発信したことが拡散するなんてことはまずないし、拡散したとしてもその範囲は限定的である。
でも、ネットは違う。どこへ流れていくのか、どこまで広がるのか、まったく見当がつかないのだ。アクセス数がその目安にはなるとしても、誰が見ているか、誰が読んでいるかまでは想定できない。
実際、思いもかけないような広がり方をしている事例がニュースになっていたりするのを見ると、それが自分の身に降りかからないとも限らないと思ってしまう。


昔ほど、インターネットの世界にやたらな恐怖は持たないようになってはきたけど、それでもいつどうなるかわからないのがこの世界で。
境界線や仕組みがうっすら見えるようになってきたからこその警戒心も生まれてきている。
完璧に防ぐことはできないだろうが、それでもわかるところくらいは気をつけていかないと、自分が怖い目にあってしまう。

フェイスブックが怖いところだというわけじゃないけど、やっぱり「実名登録」っていうのがネックになってるなあと思う。
私にとっては、「最初の刷り込み」ってものすごく強い拘束力を持つのだ。
だから、いくら「こんなふうに使えば大丈夫だよ」と教えられても、「いや、やっぱり……」と尻込みしてしまうよな、という話。
まあ、誰も私にフェイスブックを使えと強要しているわけじゃないんで、勝手にしろやって話なんですけどね(笑)