席を譲る | 10月の蝉

10月の蝉

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定期的に新聞の投書欄などに現れるのが、「電車などで高齢者に席を譲るかどうか」という話題。
譲る側からの投書はさほど多くないが、たいていは「譲ったのに、年寄り扱いするなと怒られた」というパターン。
そして、傍観者からの投書としては「優先席に座ってスマホに没頭している若者はけしからん」というような話が多い。

たまに、当事者と思しき方からの「席を譲ってもらえなくて辛かった」という投書もあるが、意外に多いのは、「席を譲られてしまった! ショックだ! これからはもっとシャキッとしていよう」というパターンのものである。
ここ数日で2件目にしたのがこれで、どちらも70代半ばの方であった。女性と男性の両方。
これはいったいいかなることなのであろうか。

「乗り物の中では高齢者に席を譲るべき」というのは、道徳心やマナーの問題とされている。
高齢者は揺れる乗り物の中で立っているのは辛いであろう、という思いやり、なのかな。

明らかに具合が悪そうであったり、立っているのもおぼつかないような方なら、席を譲ることにさほどのためらいを感じることもないと思うのだ。
譲られた方もあっさり座ってくれて、どっちも満足という結果になる。

難しいのは、明らかに「若者ではない」と見える人たち。
白髪交じりであるとか、顔のシワが深いとか、まあ、年齢を暗示する兆候はいろいろある。
そういう人たちに席を譲ったほうがいいのかどうなのか。

すたすたと足早に電車に乗り込んできたり、大きなリュックを背負っていたりすると、「あれ、この人はとても体力がありそうじゃないか?」と思う。でも、外見はおそらくは60代以上。

あるいは、きちんとした服装でシャキッと立っている場合はどうか。
賑やかにしゃべり散らしている年配の女性はどうなのか。

譲るべきか譲らざるべきか。
「まあ、でも年長者のようだし、席を譲っておくか」と思って立ち上がり「どうぞ」と勧めた時に、相手が「ま! 失礼な! 私はそんな年寄りじゃありませんよ!」と立腹するという可能性が出てきたのが昨今の状況。
なぜなら、そのくらいの年代の人ってつまりは団塊の世代もしくはそのちょっと上の人たちで、そういう人たちは若い頃に年寄りを敵視してきた年代だからである。
そういう人たちは自分のことを「いつまでも若い」「若くあるべき」と思っていることが多い。
人間、己の姿は見えないものだから、他人のことなら「年配者に席を譲りなさいよ」と思うけれども、自分のことをそうは思わないものなのだ。
だから、いざ自分が席を譲られるとショックを受ける。
「え、まさか、自分がそんなふうに見られていたとは!」と思うんだろうな。

私が見かけた投書主は期せずしてふたりとも同じような結論を出していた。
そのときは、とりあえず有り難く席を譲ってもらって座ったけれども、今後はもっと気をつけて背筋を伸ばし、しゃきっと行動しようと思った、という結論。
年寄りには見られたくないんだよね。

こういうことがあるから、譲るべきか譲らざるべきか迷ってしまうのだ。
相手は自分の年齢をどれくらい認識しているか、なんて、パッと見ただけではわからないもの。

時にはそれを逆手にとって、さほど大変そうでもないのに「年配者には席を譲るものよ」と強引に座ろうとする剛の者もいたりするけどね。

年齢ではなく、自分の体の状態をきちんと把握している人なら、譲られたら有り難く座るだろう。膝が痛いとか、怪我をしている、とか、体調が悪いとか。
でも、そういう理由もなく、ただ、「年長者である」というだけで、座る権利がある、と思う人は、席を譲ってもらえないと居丈高に怒ったりするんじゃなかろうか。


私はそういう複雑な判断が苦手なので、電車に乗るときは極力最初から立っている。
がら空きの車内なら座るけど。
まだ、立っていても当然と思われる年代と外見だし、長時間乗るわけでもないので我慢することにしている。
満員の新幹線で1時間以上立っているのはけっこうしんどいけど、ま、それは別問題だな(笑)


そもそも、「乗り物の中で座ること」に、どういう格付けがあるんだろう。
たまにわからなくなるんだよね。
明らかに立ち続けるのが辛い場合は除いて、特に怪我も病気もない人の場合、立っていることと座っていることの、ランクの違いはどこにあるんだろう。
「座ること=楽なこと」「立ち続けているのは辛いこと」っていうのはわかる。
でも、人によっては、「立ったり座ったりすること」が辛いっていうこともあるよね。座るためには膝を屈伸しなくてはならないし、座ったら膝が曲がるわけだし。
それならむしろ立っている方が楽だっていう場合だってあるかもしれない。

まあ、乗り物は揺れるからね。だから立っていると危ないのだ。
人によってはそれを利用して足腰を鍛えよ、なんていう人もいるね。
特に子どもに対してはそう思う人は多い。
「子どもなんだから(=極端に若いんだから)体力があるはずだし、足腰を鍛えるためには立っていなさい」というわけだ。
小中高あたりならそうかもしれないけど、小学生の低学年以下だと、またちょっと事情も変わってくるんじゃなかろうか。

幼児を座らせて親が立っている、という状況を見て「子どもを立たせるべき」と怒ってる意見も見かけたことがある。
子どもがおとなしくその場に立っていてくれたらね。よろけたり転んだり、どこかへ走っていってしまわない、という保証があるならそれもいいかもしれない。
しかし残念ながら、5~6才以下の子どもにそれを期待することはできない。だったら子どもを座らせて気を逸らしたほうが安全だったりもする。


いったい、何歳以上の人が「席を譲られるべき」対象になるんだろう。
見かけで判断して、「あ、この人は元気そうだな」と思って譲らないでいると、「今どきの若者は」と文句を言うし、「わかんないけど、たぶん」と思って譲ると「年寄り扱いするな!」と怒る。どっちやねん。

私は、子どもが小さかった頃に電車の中で席を譲ってもらったことがある。
2~3才くらいで、自力で立つことはできるけど、持久力はない、というくらいの年の子ども。これくらいの子どもは、抱っこしたり下ろしたりいろいろしんどいのだが、席を譲ってもらってとても助かった。私が座って膝の上に乗せておけば、あれこれ気をそらすこともできるからだ。

だから私も、小さい子供を抱っこしているお母さんには、なるべく席を譲りたいと思っているのだが、若いお母さんはそういう概念がないのか、びっくりして拒絶されることも多い。
若いから座っちゃダメだと思ってるのかなあ。子連れでいるというだけで、後ろめたい気持ちになってる人もいるし。


電車の中で席を譲るのは、思いの外難しい行動だ。
譲られた人がみんな、快く座ってくれるならいいんだけど、頑なに拒否する人がいるからややこしくなる。
自分のことを年寄り認定するのは、ものすごく業腹なことなのかもしれないけど、自分が拒絶することで、他の人が譲ってもらえなくなる風潮に加担するかもしれないってことも、ちょっとは考えてくれるといいな。
少なくとも、席を譲ろうと立ち上がった人は、相手を見て「座ったほうがいいんじゃないかな」と思ったわけだから。そこで、「年寄り扱いするとは失礼な」とか「席を譲られるような人に見られたなんて恥ずかしい」と自分のことばっかり考えないで、相手の好意を素直に受け入れるようになりたい。
私もそのうちに、見るからに若くて元気そうな人から「どうぞ」と席を譲られるときがくる。
そうなったら、ありがたく座らせてもらうことにしよう。
今はまだ、立っていても誰も気にしないでいてくれるけどね。