歩く速度 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

都会の方ではどうなのか知らないのだが、うちの息子が通っている小学校では、集団登校というシステムを採用している。
同じ町内、子ども会のメンバーが近所の公園などに集まって、集団で学校まで歩いて行く。
1年から6年までのさまざまな年齢の子供たちが一緒に歩くことで、学年を越えたつながりを作っていくという目的も持っている。

私が小学生だったときも、たしか集団登校をしていたように記憶している。
上級生がリードしてくれて、トコトコと学校までの道のりを歩いて行ったものだ。

こういうやり方が成立しているのは、おそらくは日本の安全性の高さも一役買っているんだろうなとは思う。
聞くところによれば、外国では、子供たちだけで登校することは考えられず、必ず親が責任を持って送迎しているとか。それは、登校途中にさまざまな危険が潜んでいる可能性が、当たり前のように存在しているから、なのかもしれない。

集団登校の是非は私が判断できることではないので、ここでは触れない。
ただ、現実問題として、毎朝、子供たちが集まって歩いて行くというだけのことなのに、さまざまな問題が持ち上がっていて、少々頭の痛い日々が続いているのである。

子どもといえども、それぞれが別個の人格を持ち、それぞれ違った個性を持っている。
できること、できないことは人によって違う。
そんな当たり前のことを、小学生を前にすると、往々にして忘れてしまいがちである。
「もう小学生だから」「1年生だから」という大きなくくりで見てしまう。
一人ひとりの「○○くん」という人間ではなく、マスとしての「子ども」「1年生」「男の子」というようなくくりで判断しようとしてしまう。

すると、例えば「すぐに他の子とケンカしてしまう子」だとか、「歩く速度が遅くて遅れがちになる子」というのは、問題のある子だ、ということになってしまう。
そういう子をどうしたらいいか、という観点から、周囲の大人が頭を悩ませることになるのだ。

最初に見ているビジョンが、かたまりとしての「まとまって、おとなしく、問題なく登校していく子供たち」という姿であるために、それを乱す子は、異分子に見えてしまう。
そういう困った子をなんとかしなくてはいけない、というところから考えようとするために、なかなか解決策が見いだせなかったり、時には親同士の疑心暗鬼を生み出してしまい、ぎくしゃくした関係になってしまったりすることもあるのだ。

たまたま同じ地域に住んでいて、子どもの年齢が同じ、というだけで、親もひとまとめにされる。
子どもを持つ、というのは、少なくとも今の日本においてはそういう意味を持つ。
「ママ友」なる概念は、そういうところから発生しているのだ。
ふつう、友だちとか、付き合う相手は、自分との相性を基準に選ぶ。
しかし「ママ友」には、自分の基準が入る余地が非常に少なく、もっぱら子ども中心に否応なしにつきあわなくてはならない。だから、いろいろもめるわけで。
ママ友を拒否したらしたで、我が道を行くという精神的な強さを要求されるし、それが母親だけのことですめばいいけれども、必ず子どもにも影響が及ぶ。
「子どもを持つ」というのは、そういう、自分にはどうすることもできない「しがらみ」を生み出すことでもあるのだ。


最終的な目標は「子どもの幸せ」であることにはたぶん異論はないと思う(思いたい)。
自分の子どもが不幸になることを願う親は、いないはずである。
ただ、その「幸せ」の定義、幸せになる方法、手段が、人によって全然違うから、さまざまな問題が生じてくる。
「みんなと一緒」が幸せだと思う人もいる。そういう人にとっては、「みんなと一緒にできないこと」はイコール不幸なことであり、悪い事だったりする。そうすると、やっきになって、「みんなと一緒」にさせようとする。
しかし、「みんなと一緒」が必ずしも本人の幸福と結びつかないことだってあるのだ。

安全のためには、なるべく大勢でかたまって歩いていたほうがいい。単独で歩いて行くよりはまだ集団の方が安全性が高い。そのためには、歩調を合わせて歩かなくてはいけない。
歩くのが早い子は遅い子に合わせてスピードを落とす。遅い子は少しでも早く歩くようにする。
そうやって、双方が少しずつ努力することで、だいたい同じ速度で歩いていけたら、それは集団登校の理想の姿だと思う。

でも、それがなかなかできないんだよなあ。
特に、自分のペースで歩きたい子は、他人の速度に合わせろと強制されることが我慢ならない。
早く行くにしろ、遅くなるにしろ、とにかく自分が心地よい速度で歩きたいのである。
できることなら、その気持ちは尊重したい。
しかし、集団登校というシステム上、尊重するにも限度があるのだ。
上級生は、下級生を安全に登校させるという責任を負わされているので、マイペースで歩く子がいると負担が増加してしまう。

4月というのは、そのあたりのすり合わせで苦労する期間なのである。
その年によって、早々とすり合わせが完了するときもあるし、頑としてマイペースを崩さない子がいると、いつまでたってもすり合わせが完了せず、ぎくしゃくした雰囲気になっていくこともある。そこから不登校になったり、集団登校から外れるという事態にもなりかねない。
できることなら、円満に、円滑に登校してもらいたい、というのが周囲の大人の願いでもある。


                    学校


以上が、現時点での悩みの種である。
「一人二人、どうしても歩くのが遅くなってしまう子がいて、どうしたもんだろうか」問題、とでも言おうか。
でもなあ。
そもそも、集団登校ってどうなん?っていう気持ちがどっかにある。
いや、悪いことではないと思うよ。思うんだけれども、それが絶対になってしまってるところが、なんだかなあと思うのだ。
そこにはまらない子は、個別に登校するにしたっていいんじゃないの?とも思うし。
とはいいながらも、家庭の事情で親が毎朝付き添っていくこともできなかったりするし。

いっそのこと、外国のように、「子どもを学校に無事に送り届けるのは親の勤め」ってなってたほうが楽だよな、と思うこともある。
でも、日本だと、「学校くらいは子どもが自力で行くべきだ」(それが自立というものだ)という暗黙の了解があるから、逆に親が送迎すると、「甘やかしてる」というふうに見られてしまう。それも非難めいた感じで。

どっちがいいのか、未だによくわからない。
子どもがそれぞれで登校する、というやり方をとっている学校もあるし、集団登校システムをとっている学校もある。親が送迎するという学校もあるのかもしれない。
親や他の大人が、「子ども」を一つのかたまりとして捉えてしまうと、そこからこぼれ落ちてしまう子もいるのだ、ということを、もっと意識していく必要があるんじゃないだろうか。

歩く速度は、人それぞれなのだ。
誰だって、自分だけの速度を持っている。それを尊重することが、その人を尊重することにつながるんじゃないかなあ。

                 歩く