アイコンタクト | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日は移動中にガラケーからの更新でした。
ガラケー更新の何が辛いって、文字が打ちづらいのが辛いですね。
PCならキーボードですので、一文字づつ対応して打てます(ローマ字入力なのでひらがな一文字につきキーは二つ必要ですけども)。
しかし、携帯電話ですと、一つのボタンで複数の文字を担当してますから、お目当ての文字を出すまでに何度かプッシュしなくてはならない。行き過ぎたり、足りなかったり、場所を間違えたり、と、思うような文章を作成するのにけっこう手間がかかります。
さらには、画面が狭くて小さいために、一度に表示される分量が少ない。ということは、前に何を書いたかというのが確認しづらいということなんですね。
書く内容を頭のなかに想起していられればいいんですけど、たまに見失ったりする。
そのうちに、ポチポチとボタンを押し続けることに疲れてしまったりするというわけです。

それでも、昨日は電車に乗っている時間が長かったために(2時間くらい)、わりとがっつり書いちゃったかなという感じですな。mixiの方も書いていたので、あっという間に時間が過ぎていきましたわ。怪我の功名(笑)


さて、前説が長くなりました(ってか、前説だったのね)
昨日のワークショップで感じたことを、つらつらと書き連ねてみようかと思います。

昨日のワークショップで最も印象に残ったのは、「アイコンタクトの重要性」ということでした。
虚構である演劇において、もっとも重要なのは、役者間のコミュニケーションです。
一人ひとりの演技力も、まあ、ないよりはあった方がいいのでしょうが、その演技力ですらも、一人の役者が単独で「お上手」に演じる、というようなものでは、その芝居の成立そのものがあやうくなってしまうものなのです。

「ガラスの仮面」は漫画ですが、ところどころ、非常に鋭い指摘が隠れている作品です。
その中の一つに、初期の頃の話で、北島マヤがよその劇団の芝居に客演したときのエピソードがあります。のちに「舞台荒らし」と恐れられることになるエピソードなのですが、このエピソードが示していることというのは、つまりは「自分一人お上手に演技してもしょうがない」ということだと思うんですね。
北島マヤちゃんは天才女優という設定ですので、与えられた役を、それはそれはリアルに、見事に演じてみせます。しかし、そこには他の役者とのコミュニケーションが存在していません。
相手の存在、相手の思惑、相手の動きをフィードバックすることなしに、自分だけで芝居が完結しているのです。

確かに、客としてみている分には、「なんかあの人すごいわね」と感心することになるでしょう。でも、芝居全体の出来栄えとして見るなら、妙にそこだけ突出した印象が残ることになり、「はて、なんのお話、お芝居だったかな」と思うことにもなりかねません。


マヤちゃんも、その後「他人の存在を意識する」という試練を経て、さらなる成長を遂げていくわけですが、実際に演劇の稽古をするときにも、このエピソードはとても役に立つものだと思います。

演劇の稽古の、わりと初期の段階でアイコンタクトについてのさまざまなトレーニングをします。
昨日やったのは、エアバレーボール、というゲームでした。
向い合って一列に並んだ人たちが、フッと息を吐くという動作で、想像上のボールを飛ばします。飛ばすときには必ず、渡そうとする相手の目を見る。その相手もこちらの目を見て、お互いの意思を確認できたら、フッと息を吐いて空想ボールをパスします。
簡単そうなんですけども、これをやると意外と普段の自分のあり方が如実に出ちゃったりするんですよ。慣れてる人は、その時だけぐっと眼力こめて見つめたりできますけど、そうじゃない人は普段の見方をしてしまうんですね。
昨日の参加者には中学の演劇部の女の子たちが数人いました。彼女たちの、アイコンタクトの仕方が、あの年代特有のものだったんです。
プロの役者ではなく、ふつうの中学生なので、ふだんのやり方が出てしまったんだろうと思うんですが、とにかく、はっきり目を見ないんですね。なんとなく、ばくぜんと視線を投げかけているだけ。本人としては、一応「見ている」つもりなのでしょう。でも、その見方には力がない。力というか、「意思」ですかね。「私はあなたを見ているのです」というはっきりした意思を、あえて感じさせないようにしているように見えました。

それは、言葉の言い方にも現れていたように思います。
いかにも芝居っぽい「セリフ」のような言葉ははっきり言えるのに、自分のことを語る言葉や、即興で芝居をした時に出てくるアドリブの言葉は、口をあまり開けずにもごもごとごまかすような発音、発声になってしまう。
演劇をやろうというような子たちですから、思い切りはいいんですけども、それでもにじみ出てくる「日常的なコミュニケーション能力の欠如」。
15才という年代的なものも当然あるんでしょうけどねえ。あのくらいの年頃だと、妙な自意識にかんじがらめにされてることもあるし。
ただ、ちょっとだけ、世代的な特長かな、と思う部分もあったことは確かです。
「私は見ているつもり」「私はちゃんと言ってるつもり」で終わっている。相手に確実に届いているかどうかはあまり気にしていないように見えました。
どこ見てるのかわかんないし、誰に何を言ってるのかわかんないよ、と私は密かに思ってましたにひひ

でもね。
これは何も、現代女子中学生だけに限った現象ではないと思うんです。
よく、ネットなどの顔の見えないコミュニケーションはよくない、実際に顔を見て話すことが大事だ、と言われますが、実際に顔を見て話すときにはそれなりのコミュニケーション技術が必要なんですよね。そこがけっこう落ちてる事が多くて。
とにかく、リアルで会って話せばなんとかなると思われがちですが、実際に話をすることって、けっこう難しいことでもあります。
これは自戒を込めて書くのですが、私はふだん、人と話すときに相手の目を見ることがとても苦手です。気づくと視線を逸らしてしまっている。
相手が話しているときはわりと平気で相手の目を見ているんですけど、それでも相手と目が合ってしまうと、苦しくなって目をそらしてしまう。自分が話すときにはなおさら苦しくなるわけです。
あれはいったいどういう心理なんだろうと考えてみますと、目が合うことで、自分の内側まで見透かされてしまうような気持ちになってしまうのが怖いんじゃないかと思うんですよ。
あるいはもっと単純に「私という存在(特に外側)を相手にはっきり認知されてしまう」のが恥ずかしくて苦痛である、と。
なぜ恥ずかしくて苦痛なのかといえば、それは自分のことを「みっともない」とか「醜い」とか「奇妙である」と思っているからです。だからそういう自分を認知されるのが苦痛になる。

相手がしゃべってるときに相手を見るのは平気なのです。なぜならその時主体なのは相手だから。相手が「見られる存在」になっているから、対照的に自分は見られる存在ではない、ということになります。すると安心できる。

目が合うということは、自分が相手を認知することであり、相手が自分を認知することでもあります。自分が相手のことをAと認知したとするなら、相手も自分のことをXと認知するであろう、ということが瞬時にわかります。同時に、「自分が相手をAと認知したこと」を相手も認知するだろうということまでわかるわけですね。
本気で目を合わせると、けっこういろんなことがわかるものです。

逆説的に言えば、それがわかっているから女子中学生ははっきり目を合わせようとはしないのだ、ということにもなりますね。


日常生活を送る上では、あまり相手の意図が明確にわからないほうが、また、自分の意図が明確に相手に伝わらないほうがうまくいく、ということもあります。
なんでもかんでも、あからさまにしてしまえばよいというわけでもないのが、延々と続く日常生活というものだったりするのです。
だから、ふだんはアイコンタクトが少なくてもなんとかやっていけるのかもしれません。
言葉も明瞭にしなくても、なんとなく流れていくのが現実。
それでも時には、不明瞭な言語のせいで揉め事に発展したりもするんですね。


「目は口ほどに物を言い」っていうのはほんとだな、と昨日改めて思いました。
少なくとも、気持ちを目線に込めることはできるし、相手の気持ちも、目に現れるものなんだなというのを体験しました。
あれはなかなかに面白い体験でしたねえ。
そして、気持ちが曖昧だと、視線も表情もてきめんに曖昧になるものなのだ、というのも、他の人の演技を見ていてわかりました。
あんなにくっきり出るものなのか、と恐ろしくなるくらい、くっきり出るんですね。

ということは。
映画やテレビドラマなどで、何かしらの強い感情を呼び起こすような演技を見せてくれる役者さんというのは、それだけすごい精神力なのだということなんでしょうね。
特に映画は、大画面です。その大きな画面を通しても伝わるような強い感情を表現できるということは……、と考えると、またまた尊敬の念が強くなりますね。