強く願う、ということの怖さ | 10月の蝉

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取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ギャンブルというのは、ハイリスクハイリターンです。
私はギャンブル、賭け事というのが苦手です。嫌いと言ってもいい。
それはなぜかというと、負けるのが嫌だから。

お金を賭ける場合は、まず最初に負けた場合を想定してしまう。
パチンコなんかでもそうですけど、最初に投資するわけじゃないですか。
で、負けたらその投資した金額はまるまるなくなるわけですよね。
それが耐えられない。だったらやらないほうがいい、と思ってしまう。
パチンコにハマるのは、やはり「勝った時の快感」が忘れられないからだと思うんですが、私の場合は、負けた時の事ばかり記憶に残ります。だからやらない。

お金のことだけじゃなく、勝つか負けるか、という勝負(いろんな場面で)でも、やはり負けることの方に関心がいってしまいます。

慎重な性格なのだ、と昔は思ってましたが、実はそうじゃなくて、単に「負けず嫌い」「負けるのが嫌。耐えられない」というだけのことなんだということにだんだん気づいてきました。

なんで、負けることばっか想定しちゃうのかはわからないですけども。

そんなことを改めて思ったのは、今朝のめざましテレビで、とあるオーディション番組の模様を観たからでした。
Xなんとか(すいませんちゃんとおぼえてません)っていうオーディション番組で、よく外国でやってるような厳しい公開オーディション番組だったんですけど。
そこで、いろんな人が挑戦してて、悲喜こもごもの様子が放送されてたんですが、それを見て朝から辛くて泣いちゃいました(笑)。

今はなきM-1でも、R-1でもそうなんですけど、私はどうしても敗者の方に感情移入してしまうんですね。
肝心のところで失敗したり、緊張のあまり実力が出せなかったり、本人が思うほど魅力がなかったりと、さまざまな理由で敗退していく人がたくさんいて。
だからこそ、トップに立てた人はすごいわけなんですが、私のひ弱な精神はその厳しい競争に耐えられないんですねえ。

自分の中にある「強い願望」とどう折り合いをつけていけばいいのか。
その願望が、自己完結型のものであるなら、たぶん素直に従えばいいと思うんです。
何か物を創り出したい(絵とか小説とか、その他いろいろ)という欲求、欲望、衝動は、結局自分がそれをするまで消えることはないのですから。
しかし、他人にそれを認めてもらいたい、評価されたい、という願いだとしたら。
しかも、他人からの評価なしには成立しない部類の願望だとしたら。

そういうものが自分の中にあったら、怖いなあと思うのです。
「人前に出ること」が、その願望達成の大きな要因であるようなこと~~たとえば、歌手とか、俳優など~~を叶えようとするなら、いったいどれだけの才能と運と強さが必要になるんでしょうね。
公開オーディションというのは、そういうものが如実に現れ、残酷なほどきっぱりと判定される場です。落ちたからまったくダメ、とも言い切れないのでしょうが、それでも落伍することが嬉しい事であるはずもなく、願いが強ければ強いほど、落ちた時の絶望は大きくなるのではないかと想像してしまいます。

精神的にタフな人はそこからまた、新たな挑戦に取り組めるのでしょう。
また、そういう人でないと、常に他人からジャッジされる世界で生き残っていけないのだと思います。
そして、公開オーディションをしている側は、まさしくそういう人を求めているのでしょう。

厳しい世界だなあ、と思います。
私がそういうことから常に逃げ腰なのは、弱虫だからであり、怠惰だからであり、臆病だからです。とてもそんなところで勝てるとは思えない。常に負ける場面しか思い浮かばないのですから。
あるいは、そんなふうである時点ですでに、私の持っている願望はたいして強くはないのだ、ということなのかもしれません。

小説やシナリオのコンクールに作品を応募し続けることは、「強い願いを持つ」ということだと思うんです。ダメでもくじけないで挑み続けることができないなら、それはそこまでのこと。
若いころに歌や演劇にあこがれを抱きながらも、何一つ具体的な行動を起こさなかった私は、結局その程度の願望しか持っていなかった、単なる浮ついた憧れにすぎなかった、ということなのでしょう。

あるいは。
強い願望を抱いて挑戦して、粉々に砕ける場合を先回りして想像してしまったのかもしれません。
負けるのが嫌だから最初から勝負に手を出さない、というようなもので。

自分の中にある「甘え」や「弱さ」を直視するのはしんどいことなので、日頃はつい目を背けてしまうんですけど、コンテストやオーディション番組などを見るとつい、胸の奥がズキズキしてしまいます。

どうせなら、優勝した人、勝った人に感情移入すればいいのにねえ(笑)
私が共感してしまうのは、敗退者ばかり。しかも、「哀しみ」の部分にだけ感情移入してしまう。もっと「悔しさ」や「なにくそ」という部分に共感せえや、と思うんですけどね。

そうやって、哀しみに逃げるのは、ある意味楽なことでもあるんですよね。
ああ、残念だったねえ、やっぱりダメだったねえ、と嘆くのは、甘くて蠱惑的な自己憐憫の味がするので。この味がけっこうやみつきになったりするもんなんですよ。

シャガール展を見て、心惹かれたのは、シャガールがさまざまな技法を試していたというところでした。もちろん周囲からの評価があったからでしょうが、晩年になっても、実にいろんなことをしている。それも、とても楽しそうに。
誰かに認められたい、という願望よりも、「自分がやってみたい、こうしてみたい」という強い好奇心を感じたんですよね。ああ、私もそんなふうになりたい、と思いました。

だから、というわけでもないですけど、現実に私がやってることも、他人からの評価の場を極力避けて、自分の満足だけで終われるようなものばかりになっています。
それに対する忸怩たる思いもないわけじゃないんですけどねえ。

折れる前に、折れた時の痛みを先取りして痛がってしまう。


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まあ、自分ができることからやるしかないですわね。
残り時間を考えたら、そんなに悠長にしてるヒマもなさそうだし。
ぼちぼちやるとしましょうか。