「本気」と書いたら「ほんき」と読むんだよ……マジで | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日は「日常生活なら本気の感情が出せる」と書いたんですが、そのあとつらつら考えていたら、「いや、そうでもないぞ」と思い始めたので、今日はそれについて書いてみます。


私が、お芝居をする中で、「恥ずかしい」という気持ちを捨てられないのは、演技と自分の生の感情をリンクさせられないからだと思っていたのですが、実は日常生活の中でも本気の感情を出すことができていないのではないか、と思いあたりました。

喜怒哀楽のうち、「嬉しい」とか「楽しい」というポジティブで、あまり人から非難されることのないような感情なら、さほど抑制もなく表現することができます。
にこにこ笑ってたり、人を称賛したりすることは、相手の気を悪くさせることは少ないと思うからです。
でも、怒りや哀しみはどうかというと、これはネガティブな感情であり、マイナスの表現になると思ってしまうので、なかなか外に出すことはできません。
特に怒りは難しい。
年をとってだいぶ寛容になってきた(というか許容範囲が広がった)せいなのか、瞬間的な怒りはわくものの、それが長続きすることが少なくなりました。
それに、もともと怒りを直接相手にぶつけたり、「怒ってるんだぞ」と表現することが苦手で、たいていはその感情を飲み込んで内側にしまいこむ傾向があるのです。
これは、「苦手」というよりも「恐怖」に近い感覚かもしれません。
私が怒っているということを相手に知られるのが怖い。相手にどう思われるか、どういう反応が返ってくるのかが怖いんですね。つきつめれば、「否定される」のが怖いのではなかろうかと。

哀しみについてもそうです。
私が何か悲しんでいる、という状態を相手に知られるのが怖い。
場の雰囲気が明らかに「悲しむべき」という状態になっていればまだいいんですけどね。
たとえばお葬式とか。
でも、映画やテレビ、小説、漫画などを見て泣いているところ、なんてのは、なるべく見られたくない。知られたくない。
こうやってブログなどに文字で「泣いちゃいました~」と書くのは大丈夫なんですけど、実際の現場を見られるのはとてつもなく恥ずかしい。

他にも、悩んでいたり、苦しんでいたり、追い詰められていたりするような極限状況にあるときの姿は、人に見られたくないし、知られたくないと思います。

そういうのって、要するに「本気の生の感情」を表に出したくないと思ってるということなんじゃないか、と気がついたのです。

なんで出したくないと思っているのか。
簡単に言えば「否定されたくない。嘲笑されたくない」と思っているからです。
うーん、たぶん遡るなら、成長過程のどこかでそういう目にあってきたからなんでしょうね。
自分の本心やほんとの気持ちを表に出すと怒られり、バカにされたりしたのだと思います。
そこで「自分を守る気持ち」が生まれたんじゃないかなあ。

理由はどうあれ、私はそういう性格をもって今まで生きてきました。
だから、ほっとくと自分の感情を隠そうとする。
ふつうに生活してるだけならそれで十分やっていけます。
受け入れられやすいプラスの感情だけ表に出して、マイナスの感情は注意深くしまっておく。
ごく一部の限られた相手(つまり気を許した人)にだけ、ちょろっと吐露する。
誰もが100%本音だけで生きてるわけじゃないですから、それで生きていけるわけです。


ところが、お芝居はそうじゃない。
むしろ、ふだんの生活の中では厳重にしまいこまれているような感情を、あえて表に出し、形にしていくものです。
観客は、そこに自分を投影してカタルシスを得るのです。
だからこそ、役者は感情を開放しなくちゃいけない。
こんなふうに怒ったら相手に悪いかもしれない、とか、こんなふうに取り乱したら変な人だと思われるかもしれない、というような、日常生活での注意事項をぶっ飛ばして、思い切り泣いたり笑ったり怒ったりしなくちゃいけないのです。

私が演劇に惹かれるのは、そこです。
ほんとは自分の感情をちゃんと表現したい。でも日常生活では枷が強すぎてできない。
だから芝居の中で、役に託してその感情を表現したい、と思うんじゃないかと。

その願望と、現実〈いざとなると恥ずかしくてできない)の間でもがいてるのが現状です。
ついつい、頭に詰め込んだ知識でその場をしのごうとしてしまうんですよね。
「こういうときは、こんなふうに言ったり動いたりすればそれらしく見えるんだよね」みたいな。
そんなのは、見る人が見たら一発で見ぬかれてしまうんですけどね。


「春なのに」で見たお芝居では、役者さんの気持ちが本物になる瞬間をいくつか目撃しました。
少なくとも私にはそう感じられたのです。
そういうときって、声や佇まいからぶわ~っと波動が発せられるんですよ。
「あ、いま、本気だ」って思う。
プロの役者っていうのは、それが常に出来る人なんじゃないかなと思います。だから、舞台や映画を見て感動する。


本気の感情に感動しつつ、その一方で怖がってる自分もいます。
すごい、と思い、憧れるものの、その「本気さ」にどう立ち向かえばいいのかわからなくて怖いのです。
それは、私が「本気」で向い合っていないからなのかもしれません。
逃げ腰だから、相手の本気が怖いのです。

「相手に全部放り投げちゃえばいいんだよ。任せてしまえばいいんだ」
とある人が言っていました。
なるほど、と思ったんですが、いやいや、それってけっこう怖いことですよ。
これって、「相手を信じる」ってことだと思います。と、同時に「自分を信じること」でもあります。
自分を出しても相手に拒絶されないだろう、という信頼。そして、たとえ拒絶されたとしても自分は自分であるから問題ないという自信(あるいは自己肯定感)。

結局話はここに戻ってくるんだなあ……。

しかし、いまさら「私には自己肯定感がなくて」と言い訳しても始まらない。
私の土台である「自己肯定感」はかなりスカスカでボロボロではありますが、なんとか補強を入れて、立てなおしていかなくてはなりません。
また、こういう状態であるということをちゃんと認めることができれば、新しい家も建てられるんじゃなかろうか、とも思います。


「俺はまだ本気出してないだけ」という漫画&映画がありましたが、あれは実に耳が痛かったですねえ。痛すぎてまともに見ることもできません。でも、あれが現実。
ずっと私も「まだ本気出してないから」と言い訳し続けてきたような気がします。
いつまで「まだ」って言ってるつもりだよ、とようやくムチを入れる気持ちになってきました。

今日もまた訃報欄に同年代の人を見かけました。
「まだ」って言ってるとそのまま終わってしまいかねない。それはかなしい。
ちゃんと自分に向き合おう、と決意を新たにしましたです。


念のため書き添えておきますが、私は常時こんなめんどくさいことを考えてるわけじゃありませんよ(笑)。言語化するとなんかすごく気難しくてめんどくさい人みたいになっちゃいますけど(*゚ー゚)ゞ