今やりたいことをやろう | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

……なんかすげえ前向きなタイトル(笑)

先週末の土日に開催された「春なのに……2014」
私はふだん、あまり実況中継的な記事は書かないのですが、今回はあえて書いてみました。
というかまあ、朝から会場に詰めっきりだったので、そのことを書くしかなかったんですけども。

2日間、濃密な演劇空間に身をおいて、しみじみしあわせだと思いました。
あんまりしあわせすぎて、日常に戻った今日は腑抜けになってましたよ。

「春なのに」では、たくさんの若い演劇人たちと知り合いになれました。
いちばん若かったのはたぶん17歳の女子高生の子かなあ。上はまあ……言わぬが花(笑)
20代、30代の、芝居への情熱あふれる人たちと接していたら、その熱がうつってしまったみたいです。

いまさら言ってもしかたのないことではありますが、ほんと20代のころにもっと積極的にこの世界に関わっていけばよかったと思います。
あのころ、私は何を恐れていたのかなあ。
いわゆる一般的な人生の道を歩いているわけでもなかったのに(他の大学の同級生のようにちゃんとした就職もしなかったのですから)、腹をくくって自分のやりたいことをやろうともしなかったんですね。

それから幾星霜。
35で市民ミュージカルに参加したのを皮切りに、おずおずと私は演劇の世界に足を踏み入れていきました。
ただねえ、元がほら「学校的優等生」(笑)ですので、なんでもまず、知識から入ろうとするのです。具体的には、いろんな関連書籍を読みあさりました。
芝居も見ましたよ。見るのと同時に、いろんな本を読んで知識ばかりを蓄積していきました。
そうすると、いっぱしの口は利けるようになるんですよ。だいたい、他人がやってることをとやかくいうことなんてもっとも簡単なことなんですから。
あーしたらいい、こーしたらいい、あーするべきだ、こうするべきだ、etc…

ほんと、言うだけならなんだって言えるんです。
で、自分はちょっとだけかじる。
アマチュア劇団の芝居に端役で出してもらって、役者気分を味わう。
演出助手という名目で稽古に参加し、もっともらしいことをいう。
ついには、脚本を書いて、知り合いの劇団に上演してもらったりもしました。

このときは、脚本を渡しただけでほとんど関わることができなかったため、上演されたものに関しては若干の不満が残りました。
そして最終段階。自作を、自分の劇団で上演しようと思ってしまったんですね。
市民ミュージカルで仲良くなった子が奔走してくれて、役者もなんとか集まり、会場も借りることができて、たった1回だけの旗揚げ公演を行うことができたのでした。
今になってあのときの台本を読み返すと、冷や汗と脂汗が出ます。みんなよくこんな台本でやってくれたなあと、感謝の気持ちとともに、申し訳なく思っています。
でもね。楽しかったんですよ。上演までの、実にたくさんのトラブルをくぐり抜け、無事幕が上がった時の感動は、なにものにも替えられません。
このときは自分が出演することはまったく想定しませんでした。でも、もしかしたら、心の何処かに未練があったのかもしれません。

たった1回きりの公演で劇団は休眠しました。
そして私も、高齢出産の大波に飲まれて、そこからまた10年の月日が流れたのでありました。

2010年は私にとっては復活、もしくは、最後の打ち上げ花火の始まりでした。
2012年になって、SPACのリーディングカフェに行ったことから、また演劇熱が再燃したのです。9月のワークショップ、「よんでみるかい」への参加、そして「春なのに……2013」への参加という暴挙(笑)。
2013年はシナリオの勉強でおとなしくしていたんですが、今年の「春なのに」を経験してついに、熱が本格的な炎となって燃え上がったような気がしています(ちと大げさかw)
今年は、腹を据えて芝居の勉強をしようと思っています。いや、勉強っていうとまだなんか逃げ道を作ってる感じがするなあ。
ちゃんとやろう、と思ってるんですよ。

「春なのに」が無事終了して、片付けも終わり、雑談していたときに、ある人から言われました。「まだ恥ずかしがってるんだよね」と。
あー、そうだ、その通りだ、と思いました。

演劇って、芝居って、恥ずかしいですよね? 
だって、知らない人の前で(時には知り合いの前で)、普段は見せないようなナマな感情や反応を見せるのですから。
役だ、とはいっても、それをしているのはその人本人。そこに、日常生活で無意識にまとっている自意識があれば、そりゃあ恥ずかしいです。
「感情開放」というのは、自分の持っている感情を自意識の検問を通さずに表現するということだと思うんですね。
こんなふうに笑ったら、怒ったら、泣いたら、変に思われるんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないか。そんなふうに思ってしまうのが自意識の検問です。
ちょっとでも「よく」思われたい。変なふうに見られたくない。普通に暮らしているときはそう思うのも当たり前のことです。
でも、芝居は日常じゃない。舞台の上にその一瞬だけ構築された虚構の世界です。役はその虚構の世界の住人で、役者はその虚構世界の住人の姿を自分の身に降ろして観客に提示しているのです。だから、現れる身体表現や感情はその役者由来のものであっても、その役者そのものではないんですね。

理屈ではわかっていても、いざお客さんの前に立つと、自意識が自動的に起動してしまう。
それが「恥ずかしい」という感情なのです。
この「恥ずかしさ」は、見てる方にはすぐわかってしまうもんなんですよねえ。
「恥ずかしがって演技している人」を見るのは、見る方も恥ずかしいものです。
だからこそ、その恥ずかしさ、自意識を振りきって、役としてそこに立たなくてはいけないのです。

昨日、一昨日の「春なのに」で4つのお芝居と即興劇を見ました。
そこで見たのは、「本気の感情」でした。
技術的なレベルがどうなのかは私にはわかりません。でも、確実に伝わってくるものがあったんですね。それは表情であったり、声だったりしましたが、まさしくその瞬間、その役者さんはその世界で生きている、と感じさせてくれるものでした。

私がお芝居に憧れたのは、あんなふうになってみたい、と思ったから。
ふだんの生活では出すこともない、むしろ出してはいけないような、ナマな強い感情、言葉、行動を、芝居の世界で思いっきり表すこと。
そんなふうにできたらどんなにいいだろう、と思います。

今までは、「できたらいいな」と思うだけでした。
できるようになるために、ボロボロになって立ち向かうこともせず、ただうすぼんやりと憧れているだけだったのです。そうしていれば、傷つくこともないし。


でもねえ。
最近、自分と年の近い人の訃報を目にすることが増えた気がするんですよ。
人生80年とか言いますけど、自分がそこまで生きるという保証はどこにもありません。
むしろもっと短いんじゃないかと思うこともあります。
だとするなら、できるときに、やりたいことをやっておかないと。
最近とみにそう思うようになりました。
若い時は「やって後悔するよりも、やらないで後悔するほうがいい(そのほうが傷つかなくてすむから)」と思っていたんですが、もういいだろうと。
これからなら、「やって後悔する」時間もさほど多くないんじゃないか。
死ぬときに「ああ、こんな早くに終わりがくるなら、やっとけばよかった」と思うのはつまんない気がしてきたのです。

ようやく、です。
ようやく、自分に言い訳するのをやめようと思えるようになりました。
あちこちに頭を下げたり、後ろめたく思ったりすることになりますが、それを「やらない言い訳」にしちゃいかんなと。
言い訳探すのは大得意なんですよね。やらない言い訳は山ほど出せる。
でもそうやっていてやらないでいても、なんにも残りません。
「言うだけ番長」は卒業して、七転八倒しようと思っています。

……ハードル、上げすぎ、かなあ……(・・。)ゞ