家事能力 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

MAMApicksというサイトで面白いコラムを読みました。
「家事無能力者の憂鬱」というタイトル。

家のことをほとんど手伝わずに育った女性が、ひとり暮らしをして初めて家事の大変さに気付くというような内容でした。
それを読んで、私も一人暮らしを始めたころのことを思い出しました。


時代がそうだったのか、母親の性格がそうだったのかわかりませんが、私はほとんど家のことをしないで育ちました。
専業主婦だった母が、家庭内の仕事すべてを取り仕切っていて、「子どもに手伝わせる」という発想は持ってなかったんでしょうね。
私は第1子の長女でしたが、「女の子なんだから家のことを手伝いなさい」ということは一度も言われたことはありませんでした。

今ですと小学校あたりで、「家の手伝いをさせましょう」てなことを言いますね。
家族の一員であるという意識を持たせることが大切だという意識を広めようとしているのだと思います。
でも、私の家ではそういうことは全然考えてなかったみたいです。

ですから、私は全く家事について無知なまま成長しました。

小1の冬に末弟が生まれたんですが、母が病院へ行ってしまったあと、「味噌汁を作らなくては」と思い、台所に立って見よう見まねで味噌汁を作ったことがあります。
でも、教えてもらったことがなかったので、「だしを取る」ということを知りませんでした。
当時、母は、煮干しでだしをとっていて、私もそれを見ていたはずなんですが、それが「だしをとっている」行為であるとは思っていませんでした。
その結果、出来上がった味噌汁は、ただお湯に味噌をとかしただけのもの。具もなし、だしもなし。父は妙な顔で飲んでましたっけね。自分でも飲んでみて、なぜいつもの味にならないのか、とても不思議でした。

その後、母に料理を教わった、ということもなく、炊事以外の家事もまったく意識することなく、きわめてのほほんと暮らしていました。

教えてもらってないから無知なのは当たり前だと思うんですが、母はどうやらある程度の年齢になったら勝手にそういう知識を技術を身に付けるものだとどこかで思っていたフシがあります。
中学、高校あたりで、私が家のことを何もできない、という理由でひどい叱責をくらったことが何度もあるのです。
理不尽だなあ、と思ってました。やったこともない、仕込まれたこともないのに、できるわけないじゃん、と。ただ脳天気にそんなふうに思っていました。

大学に入って最初に住んでいたのは学生寮でした。
まかないはついていましたが、日曜日などは食事がなくて、自分たちで用意しなくてはなりませんでした。外へ食べに行くこともありましたが、たまに、自炊することもありました。
私はその時初めて、まともに自分で料理したのでした。

寮で親に管理してもらう生活からの脱却の第一歩を踏み出し、3年目にはアパートで一人暮らしを始めました。でも最初は、共同トイレ、共同の風呂、という環境だったので、まだまだきちんと生活を管理している状態とはいえませんでした。
その次に住んだ部屋から、本格的に、自分の生活を自分で管理する、という本当の一人暮らしが始まりました。

生活する、ということは、実にさまざまな雑事をこなすことです。
ありとあらゆる行動には、それを支える物資の購入や状態の把握が必要になります。
早い話が、トイレットペーパーは使えばなくなるのですが、それをどの時点で買い置きするか、ということも自分で考えなくてはなりません。そうしないと、トイレで用を足してから紙がない、しかも買い置きがない、という恐ろしい事態に直面することになってしまうのです。

親の家に住んでいる時は、「おかーさーん。トイレットペーパーがないよー」と言えばよかった。買い置きは、いつのまにか魔法のように戸棚に入っているものでした。
歯磨き粉はなくなれば新しいものが出てくる。タオルはいつも洗いたてのものが出される。
それをしているのは誰なのか、ということは、親の家にいるとき、つまり「子ども」の立場にいるときはまったく考えもしませんでした。

一人暮らしをしたことがないまま結婚して、奥さんが専業主婦をしている男性は、おそらくずっと「子ども」のままなんじゃないかと思います。奥さんがいないと、どこに何があるのかわからない、というのは、まるっきり子どもと同じですもんね。

一人暮らしをして初めて、生活するということの具体的な姿が少し見えてきたのです。
あくまでも少し。
なぜなら、自分のためだけにすることって、とても気楽で、たやすいことだからです。
どんなことでも、自分の都合だけで決断できた。タイムスケジュールは自分の思うまま、寝たいときに寝て、食べたいときに食べて。トイレットペーパーが切れても、困るのは自分だけです。
タオルが臭ってきたって、クサいと思うのは自分だけなのです。
掃除だって、自分のタイミングでできる。家財道具だって自分の好みだけで選べるし、食べるものも自分のことだけ考えていればいいのです。

結婚してから、しみじみ思いました。一人暮らしって、すごく楽だったんだなあって。
結婚したら、たとえ専業主婦でなくても、他人(夫)の都合に合わせなくてはなりません。
夫の方も多少は合わせるでしょうが、なにより「仕事をしている」という大義名分がありますから、それまでの生活時間や生活態度を変更する必要性が少ないため、ほとんど変わりません。
ところが妻はそうはいかない。なんとなく、家庭運営の責任者みたいになってしまうので、いきなり家庭を運営する役割を受け持たなくてはならないのです。

そう、かつての「おかあさん」にならなくてはいけないんですね。
魔法のように、生活を円滑に送らせてくれる人に。

それがこんなに大変なことだとは、思いもしませんでしたよ。

かつての、家の手伝いをしない長女は、今では、一人前の顔をして生活を管理する「奥さん」になりました。
トイレットペーパーやティッシュなどの消耗品の在庫を常に頭に入れ、スーパーでの底値を把握する。夫の勤務体系を覚え、子どもの学校行事を把握し、送り迎えの時間を計算する。
今言われて今すぐ用意できるものなんて、そうめったにありません。
「明日学校に牛乳パックを持って行くんだって」と言われても大丈夫なように、常に予備を置いておくとか。
とにかく、先回りして予測し、予備を用意しておく。お母さんの仕事ってそれに尽きるかもしれません。前もってやっておくことってすごく大切なんですね。

自分のためだけに暮らしている時と、家族ができて家族のために暮らすようになった時では、要求される家事能力に違いがあると思います。
結婚したら、とにかく他人の都合にあわせて生きることが最優先されます。夫の都合、子どもの都合、舅姑の都合などなど。自分の都合はいちばん後回しです。自分の都合で動こうとすると、ものすごい抵抗にあいますから。
一人のときは、純粋に家事に対する能力が必要ですが、結婚したら、他人の便宜をいかにうまく図るかという方面で家事能力が要求されるようになります。

あ~、ご飯作るのめんどくせえなあ、と思う時、つまり他者の都合のために動かなくてはならないと思う時、そもそもそんなふうに思ってしまう自分は結婚不適格者なんだな、と思います。
あんまり家事能力は高くないので、いつもうっすらと、一人暮らしを夢見ているのです。