時止め | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

この間から五十嵐貴久さんの本を読み返していてふと、「復讐とか恨みの気持ちというのは、自分の中で時を止めている状態なのかも」と思った。

小説で扱われている題材は、少年に子どもを殺された親とか、リストラの影響で家族や友人をなくした人で、犯行の動機が復讐だったんだ。
原点となる事件については、当事者の怒りや苦しみ、悲しみはよくわかって、読んでいてまるで自分のことのように辛くなる。というか、そういうふうに書いてある。
そして、その怒りや恨みの感情からしたら、復讐したくなる気持ちも十分わかる(ように書いてある)。

よく、「自分がそういう目にあったらどう思うか、考えてみろ」という言い方をする。
例えば私が、「加害者の言い分も理解できる」あるいは「理解したい」と言ったとすると、そういう反応が返ってくることが多い。
まるで、加害者のことを理解したら、それがイコール加害者を許してしまうことになると思っているかのように。理解することと許すことはまったく別物なのにね。
それはつまり、被害者と同じ気持になって、同じように怒れ、恨め、それだけが正しい反応だと言ってるのと同じことだ。

現実の事件でも、理不尽な結末を迎えているものが多いし、だいたいにおいて被害者が納得できるような展開にはならない。いつだって、判決は不十分だし、不本意なものになる。
たまに、死刑判決とかが出ても、それすら不満の種になるんだ。
死刑ですら不満なのだとしたら、いったいどうすれば満足できるんだろうか。

いや、別に満足してないのが悪いと言いたいわけじゃない。
でも、被害者やその遺族は、極論すれば、どうやっても満たされることはないと思うんだよ。
受けた被害は消えないし、死んだ人は戻ってこない。絶対に元の状態には戻らないから。

私は、司法制度というのは、そういう「覆水盆に返らず」な現実の中で、せめて少しでも釣り合いをとるために存在しているものだと思っている。
細かく罪を定め、それに対応する罰を制定してる。人は必ず間違いを犯すもので、その中でも「これはいかんよね」と同意が得られるものについて、「これこれのことをしたら、こういう罰を下す」と決める。
だから、なにか事件が起きた時にはそれに当てはめて行動することになる。
逮捕だって取り調べだって裁判だって、そして科刑だって、全部法律に則って行うものなのだ。
でもそれは、事前に想定されたものだから、人の感情や事情は一切考慮されてない。そこまで範囲を広げたら、とても制定しきれなくなるから。

現実には、人はあらゆる事態を引き起こす可能性を持ってて、人間関係も、そこに発生する感情も、事情も千差万別。だから、法律にそぐわない事例だってたくさん出てくるのだ。

自分の家族を殺されたら、誰だって怒り狂う。それは自然な感情だ。
でもそこでやり返すことを認めたら、永遠に同じことが繰り返されることにもなりかねない。
だって、誰もが誰かの家族、あるいは大切な人なのだから。
だから、「仇討ち」には常に制限がつけられてきた。たぶんあらゆる民族で、殺戮の連鎖を止めるためのシステムが存在しているはずなのだ。効かなくなってるとこもあるけども。基本としてはあるはず。
法治国家というのは、法律によってその連鎖を食い止めようとする。
加害者を、法律によって裁くことで納得しましょう、というシステム。

それでも、人の感情はどうしてもそこからこぼれ落ちる。溢れ出る。

復讐譚を読んでいると、復讐しようとしている人は、被害が発生した時点で自分の中の時を止めているんだな、と思えてくる。
繰り返し、繰り返し、被害が発生した時のことを自分の中で再生することで、自分の感情をそこに繋ぎ止めておく。わざとじゃなく、針が飛ぶレコードのように、どうしてもそこへ舞い戻ってきてしまう、ということもあるだろう。つまりはそれが心の傷ということだ。
そうやって、時が止まった状態にいるから、解決法は加害者を抹殺することだけに限定され、もしその目的を達することができたら、その先はなんにもなくなる。生きる目的がなくなってしまうのだから。
復讐は虚しい、というのは、そういうことを言うんだろうなあと思う。

朝ドラ「あまちゃん」が震災後の話に移っている。
北三陸の人たちは一生懸命いろんなことをしようとがんばってる。
そのことで、「震災をドラマのネタにしただけだ」とか「演出に使って視聴率をあげようとしてるだけだ」と非難する人もいる。
でも、実際に被害が発生したのは2年前の3月11日で、その日からも同じように時は流れている。時が流れているということは、生き続けてるということで、生き続けるということは、日々発生するさまざまなことに対処していくということだ。
悲しくて恐ろしい出来事があった。でも毎日は続いていく。そのときに、心があの日に残されたままでは、歩いていけないじゃないか。

変化する時を生き続けるのは苦しい。なんで誰も彼もが前を向いて歩いていかなくちゃいけないんだ、とも思う。過去のある一点にとどまって、繰り返し記憶に浸っている方が、ある意味楽だと思う。
私がこのブログで何度も過去の話をするのは、それが気持ちいいからだ。
もう決して動かず、変化しない物語を語ることで、私の心も動かずにいられる。じっとしてることが楽だし気持ちいい。

復讐したいほどのつらい目にあった人が、その一点にとどまりたいと思うのも無理はないかもしれない。虚しくなるよ、と心配になるけど、でも仕方ないのかもしれない。
時に人は、もう前を向いて歩いていたくなんかないのだ、と思うことがあるのだろう。
復讐に囚われた人は、自分の中の時を止めてしまって、歩き続けることをやめてしまった人なのかもしれない。
それがいいとも悪いとも、私には言えない。ただ、哀しいなあと思う。

前を向いて歩いて行きたいと思っても、諸事情が足止めしてくるってこともあるだろうしなあ。
震災関連の記事を読んでるとそう思う。
がんばろうと気力を奮い起こすことすら不可能にされてる状態が、そこかしこにあるから。

気力はどうやったら湧いてきますか。
どうすれば、がんばって前進していこうと思えるのかな。

私も今ちょっと、時が止まりかけています。