綺麗事はもう結構 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

3位 蟹座

★今日の運勢
人生のテーマになる夢や目標を考えさせられる日です。生きる上での信念がはっきりしていても、周りの人の発言によって迷いが生じるかもしれません。心の柱になるものは何かを突きつめられたら、今後の人生がより充実するでしょう。

★今日のラッキーワード
唐揚げ





占いは特に意味はないんですけど、なんかかっこよかったんで、使ってみました。

12月に選挙ということで、テレビも新聞もネットも、その話題で持ちきり。
もちきりなんですけど、その内容をよく見てみると、誰と誰が合流しただの、離反しただの、という権力闘争の話ばかり。肝心の政策はといえば、「原発をゼロにします」とか「消費税増税はしません」とか「美しい未来を子どもたちに残そう」とか、ちょっと聞くだけならたいそう耳に心地よいものばかり。

あの大事故を経験し、今まだその後始末が継続している現在なら、「原発をすべてなくします」といえば受けるに違いないと思っているのでしょう。
原発憎しのあまり、電力に支えられた社会構造や経済原則すら否定し、「むかしに戻ろう」と主張する人も出てきています。

ゆうべ、テレビで北海道の大停電のニュースを見ながら夫と話をしました。
今回の大停電は自然災害による送電網の破壊のせいです。とてつもない冬の嵐が北海道を襲っているらしい。避難所に集まっている方たちの様子を見ると、その寒さ辛さが想像され、寒がりの私はいろんな意味で震え上がってしまいました。
復旧作業に携わっている方たちもきっと懸命に作業されていると思います。みんないろんなことを言うけど、やっぱり現場の人たちは「壊れたものを直す」ということに真剣なんですよ。その使命感があるから、驚異の復旧を成し遂げることができるんです。
それを、当たり前だと思うようになってしまったというところにも、実は問題があると私は思っています。

パソコンの画面ではなんでもクリックひとつで作業が進みます。タイムラグもタイムロスも驚くほど少ないし、実際の距離に影響されることもありません。
それに慣れてしまうと、どんなことでも瞬時に実行されるものだと思い込むのではないでしょうか。
でもね。一日は24時間しかなくて、実際に人間が作業するときには必ずある程度の時間が必要なのです。一瞬で移動できたり、一瞬で作業が完了できるほどに科学が進んでいるわけではない。
この、アナログとデジタルの共存を、どうバランスをとっていくか。そういうことも考えるべきだと思うのです。


原発ゼロも、昔に戻ろうも、実に美しい理想のように聞こえます。
でも、それらが内包するデメリットについても真摯に語っている人をいまだに見たことがありません。
メリットだけの事柄なんてありえないはずなのに、原発の稼働を止めさえすればすべてが解決するかのように語ったり、再生エネルギーさえ使えばすべてのエネルギー問題経済問題が解決するかのように装ったりしている人ばかり。

電力を否定して昔に戻ろうということは、つまりは、昔のような生活水準、社会水準に戻るということです。
貧しいから人々は助けあうしかなく、家族は結束せざるを得ないでしょう。物資も欠乏しているから大切に扱うでしょうし、使い回しだってするはず。
それが美しき姿だというのは自由ですけど、同時にそういう社会では必ず弾かれてしまう人たちが出てきます。かつての日本だってそうだったでしょう。体の不自由な人、知能に問題のある人、年老いてみなと同じように働けなくなった人。そういう人たちをどう扱ってきたか(社会として、です)ということについて考えているのでしょうか。
今、障害のある人や病気を抱えた人や高齢者の方たちが生きていけるようになったのは、あきらかに社会に余裕ができたからです。その余裕は電力による産業の発展、そしてそれにともなって経済的に余裕ができてきたからこそ実現したことだと思うんです。
いろんな研究だって、社会が安定して余裕がなければ進めることはできません。
利便性を追求することが、あたかも怠惰の現れであるかのように言われることがあります。確かにそういう一面もあるでしょうが、大きな恩恵を受けている人たちだっているのです。
技術や科学の進歩は悪いだけのものなのでしょうか。そんなふうに単純に言い切ることで、もっと別の何かも同時に切り捨ててしまうということはないんでしょうか。

もちろん、昔のように、自力で生きられないもの、社会に適合できないものはどんどん淘汰されるべし、ということも同時に言っているならいいんですよ。
そこまではっきりさせて、それでもなお、自力で生き抜けるものだけが生き抜いていけばよいのだ、というのもひとつの考え方ではあります。
ドイツを見習って脱原発を目指すといいますが、ドイツのどこをどう見習うというのか、そのあたりは巧妙にぼかされています。
けっこう厳しい状況になってるみたいなんですが、それも込みで見習おうというのでしょうか。

理念も大切ですが、理念の前に今現在の生活が大切でしょう。理念を唱えつつ死んでたら話にならない。

と、思いつつ、その反面、そうやって全世界の人口が、あるいは日本の人口が減少していくのも悪くないかな、という破滅的な感情も心の隅にあったりします。
誰に投票しても、どうにもならないという徹底した絶望感が拭い去れなくて、ただ単に他の人のいいなりにはなりたくないという意思表示のためにだけ投票に行こうかと思ったり。

「いまの若者」を育てた世代は、なぜか今の若者を悪く言いがちですが、でも、上の世代がいなくなったあと、「今の若者」たちこそが、新しい社会システムを作り出せるのかも、とかすかに期待する気持ちもあります。その社会はたぶん、私や私より上の世代には受け入れがたいものになるでしょうが、因果関係ということを考えれば、今の破綻した状況をつくりだしたのは上の世代なんですから、新しいシステムに文句をいうのも筋違いかと。

私は、長くてもあと数十年しか生きていませんから、この先どうなろうとどうでもいいっちゃあどうでもいいんです。死んだもん勝ちってやつで。
でも、自分の子どもたちはもうちょっと長く生きるでしょうからねえ。大変そうだなあと。

いろんなことを突き詰めて考えあわせていくと、矛盾だらけだし、あちらを立てればこちらが立たずだし、いったいどうすりゃいいのか途方にくれてしまいます。
目先のメリットや、短期的な損得や、感情的な政策はもうたくさんなのです。綺麗事なら誰にだって言えますし、言うのはただです。でもそんなもの、何の役にも立たない。
停電で寒さに震えてる人たちのところへ行って、「電気なんていらないんですよ」と言ってみればいいんです。
電気で動く医療機器で命をつないでいる人のところへ行って「この電気は原発で作った電気だから使ってはいけないんですよ」と言ってみればいいのに、といつも思います。
世の中は元気で障害のない人だけで構成されているのではない、という当たり前のことを忘れないでほしいものだと思います。
自分だって十分文化の恩恵を享受しているくせにそれを否定する言動を見ると、どうにも腹の虫が収まらない今日この頃なのであります。