大人になれてよかった | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

広報部で使用する写真を撮りに学校へ行った。

今日はプール開きで、プールサイドには3年生の子供たちが集まっていた。
その光景を何枚か撮影しながら、見るともなしに様子を眺めていた。

シャワーの水の冷たさに大騒ぎする子どもたち。
列の後ろのほうで、なにやらおしゃべりしている子どもたち。
ピーピーキャーキャーと黄色い声がひっきりなしにあがる。

先生たちはハンドマイクを使って、必死に子どもたちを制御しようと努力していた。
ときどき、厳しい言葉が飛んで、見ている私がドキッとしたりする。
それでもいまの先生は昔の先生に比べたらずっと物言いが優しいなと思った。

私もかつては小学生だった。その次に中学生になり、高校生になり、最後は大学生になった。通算で16年間も学生をやってたんだな(今計算してあらためてびっくりしたw)。
以前もちょっと書いたことがあるが、私が学生をやっていた時分は「学校へ行かない」という選択肢がなかった。
今だって公に認められているわけではないが、世間の認知度はかなりあがっているし、「無理に学校へ行かせなくてもいい」という考え方も出てきて、それなりの受け皿がぼちぼちでき始めている。
でも、昔はそんな受け皿もなくて、「学校へ行かない」=「社会からの脱落」だったのだ。

小学生のころは、「学校へ行かない」という選択肢があることすら知らなかった。
いやだなあと思っても、めんどくさいなあと思っても、学校へは行くものだと思っていた。
そうして、いろんなめんどくさいことや嫌なことに出会い、凹んだりめげたりしながら過ごしていた。
まあ小学生のことだから、さほど深くいろんなことを考えたわけでもないが、それでも「子どもなんてつまんない立場だ」と思っていた。

中学に入ったらもっとその思いは強くなった。くだらない校則を金科玉条のごとく奉って押し付けてくる先生たちに、抗うすべを持たない自分が悔しかった。
それでも、レールから外れることが怖くて学校へ行き続け、テストを受けて進学したのだ。

そんなことをぼんやりと思い出しながら、プールサイドで騒ぐ子どもたちを見ていたらしみじみ「大人になれてよかったなー」と思った。
今、彼らはまだ子どもの立場で、あんなふうにたくさんの同年代の子どもたちともみくちゃになって過ごさざるを得ない。
友達ができて楽しい日々を過ごせるときもあるだろうが、時には嫌な思いをすることもあるだろう。先生の理不尽に悔し涙を流すときもあるかもしれない。
それが「子ども時代」なんだよなあ。
ああ、私はもう子どもでなくてよかった、と心から思った。もうあんな生活をしなくてもいいのだ、好きなだけ一人でいてもいいのだ、自分で好きなところへ行って、好きなことができる大人になれたのだ。
目の前の子どもたちと自分の子ども時代をダブらせて、その「子どもならではの不自由さ」をまざまざと思い出しながら、同時に「大人であること」の自由さを思うと、「ああここまで生きてきてよかったのかも」という思いが浮かぶ。

大人だって別にいいことばかりじゃないけど、大人なりに辛いこともたくさんあるけど、でも「子どもである」ということの絶対的な不自由さを思うと、やっぱりよかったと思う。
「子どもたち、大変だな。がんばれよ」と苦笑いのエールを送りたくなる。

当の子どもたちはたぶん、そんなこと露程も感じてはいないのだろうけれども。