評価と価値 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

一つの作品について、まるっきり正反対の書評を見た。
掲載されている新聞自体も違うのだが、片方の評者は、その作品について「非常に説明的であり、小説としての豊かさを感じない」と断定している。
もう片方の評者は、「実に豊かな小説世界を堪能した。ぜひ多くの人に読んでもらいたい」と書いている。

どちらが正しいということではないのだろうな、と思う。

人が作り出す創作物についての評価というものは、結局はその評者自体の価値観にほかならない。
ある作品について、面白いと思い、素晴らしいと感じるのは、まさしくその評者が面白がり、感動していることを表している。

高く評価する人が大多数だったり、社会の中で力を持っている人であれば、その評判は長く残り、作品自体の価値も上がる。

古典と呼ばれる世界的名作、傑作なども、つまりは「いい」というひとがたくさんいた、という意味であり、その好評が継続されてきたということを意味する。

ということは、「絶対的価値」というものは実はないのではないか、という考察にいきつく。

先日読んだブログで、そのブログ主が「私には世界的名作を書く力がある」と言い切っていて、ものすごい違和感を持ったのだが、その違和感の正体とはつまり、そういうことなのだ。
「世界的名作」あるいは「世界的傑作」という客観的かつ絶対的なマニュアルがあるわけではなく、基準もない。何をどう書けば名作、傑作になるのかは、ある程度のフォーマットはあるにしても、絶対確実ということはないはずなのだ。

なぜなら、それを受け取る側の価値観や評価基準が常に流動的だからである。
生前に評価されず、死後にその作品の価値が高まったといわれる芸術家はたくさんいる。でもそれは、その芸術家の生前に彼を取り巻いていた世界に見る目がなかったというわけではなく、「いいのだ」と評価する有力者に恵まれなかっただけなのかもしれない。


作品そのものに固有の価値があるのではなく、それを取り巻く世界の、評価次第で傑作と呼ばれたり駄作と呼ばれたりするんじゃないだろうか。

自分の気に入らないものを「つまらない」「くだらない」「価値がない」と見下すのは、ある種の快感を伴う行為だけれども、そういう評価を聞いて判断するという行為はあまり意味の有ることではないと思う。

「最近のはやりは何か」「いったい何を読めばいいのか教えてほしい」「おすすめはこちら」など、他人の評価で作品を見ることが主流になっているようだが、別に流行っていようがいまいが、自分が気になるものを見たり読んだり聞いたりすればいいだけなんじゃないのか、といつも思う。
参考意見としておすすめを聞くのはいいけど、それだけに頼るのはちょっともったいない気がする。
「みんながつまんないって言ってるぜー」という評価の仕方には中身がない。


ある人が口を極めてけなしているような作品は逆に興味がわく。その人がどこにそこまで否定的な感想を抱くのか、その人が評価しない部分を、私はどう思うのか、それを知りたいと思う。
読んだ結果、「同じ意見です」と思うときもあるし、「いやいや、私は十分楽しめましたよ」というときもある。そうやって自分の価値基準を作っていくのが楽しいんだと、私は思うんだけどね。

そう思えば、私の拙い作品すらも、私にとっては意味のあるものなのだ、と心強い思いになれるというものだ(笑)。