絶叫する子ども | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

かつて西欧の国では、「子どもはいまだ社会化されていない動物」のようなものであると考えられていたそうな。
だから、ムチで調教する、と。
してはいけないことは、痛みとともに教えこまなければならないと信じられていたらしい。
あちらの国の文学では、わりと当然のように「子どもを躾けるムチ」という存在が登場してくる。
そういえば、「赤毛のアン」では、アンが「私はムチなしで子どもを教育します」と宣言して、周囲の人たちに「無理無理」と笑われるというシーンがありましたな。
寄宿舎が舞台になるような物語でも、子どもが幼いうちは「ムチ」が必要であるという前提で物語が進んでいくことが多かったと思う。
私はそれを読んで、「おっかねえなあ」と思ってたけども。

開国のころにやってきた外国人が、「日本人は子どもに甘い」と思ったという話があるが、日本には「ムチ」という概念がなかっただけで、ものさしのようなものでピシ!ってなことはけっこうあったのではないか。あるいは「おしりペンペン」とかね。
なんにしても、幼い子供は時に叩いてしつけなければならない、という共通概念があったように思う。

それがいいか悪いかは私には判断できない。でも人間のやることは往々にして「やりすぎ」へ移行していきがちだから、「節度あるムチ」なんていうのはあくまでも理想形にすぎないとは思う。

そういった、上から押し付ける育て方はよくない、という考え方が、(おそらく)戦後に一般化して、だんだんと「子どもの意見を尊重する」という方向へ向いてきた。それ自体は悪いことではないと思うんだけど、これもまた、「行き過ぎ」の傾向を免れられなくて、「お子様至上主義」みたいな感じになってきてるように思う。

私が娘を育てていた20年ほど前、公共の場で子どもが騒ぐことに対して、ずいぶん神経をとがらせていた。
もちろん、子どもは自分の感情だけで行動する存在だから、時と場所を選ばずに泣き叫ぶことはしょっちゅうある。
そうなったときに、私はまず場所を移した。
スーパーの中で泣き喚いたら、とりあえず外へ連れ出す。ファミレス(めったに行かなかったけど)で騒いだら、食事を中止してでも外へ出る。
電車やバスの中で泣き喚いたら、降りる場所ではなくても、とにかくいったん降りる。
それは、周囲への気兼ねでもあったし、子ども自身の気分転換も兼ねていた。
そうして場所と気分を変えてから、子どもをなだめたり、あやしたり、たしなめたりした。
そういうものをひっくるめて「しつけ」だと思っていた。

なにしろ、子どもの泣き声やわめき声というのは、相当うるさい。
プロの俳優も顔負けなくらいの腹式呼吸で、リミッターカットされた大音量の声を発する。しかもエンドレス。
自分の子でも気が変になるくらいうるさいと思うのだから、無関係な周囲の人たちがどれくらいうるさいと思うか。ちょっと想像すれば、というか立場を変えて考えてみればすぐにわかる。
「子どもは泣くものだから」というけれども、泣くものだから泣かせたままでいい、ということはないのだ。

子どもが泣くには理由がある。
自分の思い通りにならない、という立派な理由が。
「お兄ちゃん(お姉ちゃん)がワタシのお菓子をとった」「お兄ちゃんがお菓子をわけてくれない」「おもちゃを貸してくれない」「ワタシのおもちゃをとった」「お姉ちゃんがぶった」「おかあさんがお菓子を買ってくれない」「もっと遊びたいのに帰るという」などなど。
とにかく自分の意思に反した事態が起きると、まず泣く。それしか方法がないから。

それをなんとかするのが親の務めである。
抱きしめるでもいいし、あやすでもいい。話を聞いてやるという方法も時には有効だろう。
ただ、それは、なるべく周囲に迷惑をかけない場所で行なうべきだと思うのだ。

最近、スーパーなどで延々泣きわめいている子どもをよく見かけるようになった。
もちろん、泣くことが悪いのではないが、「すぐにでも親がなだめて泣き止ませるか、外へ連れ出すだろう」という思惑が外れることが増えたのだ。
どういう意図なのか(おそらくは躾のつもりなのだろうが)、いつまでも泣かせたままほったらかしなのだ。
ベビーカーの中で、売り場の通路に転がって、子どもはギャンギャン泣きわめき続ける。怒鳴り声をかけるならまだいい方で、どうかすると知らん顔して泣かせっぱなしなのだ。
「あなたの教育方針に異議を唱えたくはないが、頼むから躾はどこか別の場所でやってくれないだろうか」
といつも思う。
「わがままはいけない」と教えたいのだったら、外へ連れだして顔をじっくり見て、静かに言い聞かせてやってほしい。

また、最近は映画や演劇鑑賞の場にも小さい子ども(いわゆる未就園児)を連れてくる人が増えた。最初からお断りの場合はさすがに連れてはこないが、アマチュア劇団の公演なんかだと、知り合いが見に来ていることが多く、そういう人は赤ん坊を抱いて客席に座っているのだ。
大胆だよなあ、と私は思う。
私だったら、いつ大音量で泣き出すかわからない赤ん坊を、一定時間じっとしていなくてはならない場所には怖くて連れていけない。泣きだしたらすぐに外へ出なくてはならない、と思うからだ。
でも、最近の若い親は、なかなか出て行かない。相当長いこと、あるいは激しく泣き続けないと出ていってくれないのだ。
その結果、芝居は台無しになるし、映画はセリフが聞こえなくなる。
アマチュア劇団の役者程度だと、音量で赤ん坊に負けることがほとんどなのである。

「公共」という概念がなくなってきてるのかな、と思う。
公共、というのは、「世の中には自分以外の人間がたくさん存在している」ということだ。
しかし今は、みんな半径5メートルくらいの世界しか見えてないんじゃないかと思うことが多い。
車の運転も、自分の都合だけで行なっているから、交通法規なんてあってなきが如しの状態だ。信号無視、スピード違反なんて当たり前のように起きている。自分だけはいいと思ってるんだろうなあ。ウインカーも出さずに突然曲がられると、後ろにいる車は大変迷惑なんだけどね。

「子育てに熱心」なのはいいことだけど、その子育てがどうも自分の周りだけにしか目配りがいってないんじゃないかと思う。
子どもの泣き声は物理的な暴力なんだよ。耳が痛くなるほどうるさいのだ。
それでも、そうやって人間は育っていくのだと思うから我慢するんだけど、そこで変に「子どもの気持ち」ばかり尊重されると、なんだかなあと思ってしまう。

今日、ジャスコへ行ったんだけど、そこここで、子どもの絶叫が響いていた。明らかに駄々をこねている泣き方。しつこくいつまでも濁音で泣き叫び続ける。
なぜ、それを親は放置するんだろう。躾は別のところでやってくれないだろうか。少なくとも「しばらく放置する」という内容の躾は、たくさん人がいる場所では行わないでほしい。ここにいるのはあなたとあなたの子ども「だけ」ではないのだ。

昔のように、問答無用で押さえつけ、体罰で躾けるのがいいとは思わないが、だからといって放し飼いのように好き勝手にさせておくのもどうかと思う。
こういうことは、すぐに両極端に走るものだから難しいのだが、せめて、子どもが泣き喚き始めたら、周囲に人がいる、ということも認識しておいてほしいと思う。
自分の身を着飾るのもいいけど、子どもを持った以上はまずは「子どものおもり」を第一義に考えてほしいものだ。


「ピギャー!」とか「グォガーーー!!!」などの絶叫は鼓膜が痛くなる。一瞬殺意が湧くほどの大音量だよ。「親が必死でなだめたりあやしたりしている」という態度があってはじめて、「大変だよねえ」という同情心も湧くというもの。
親になるっていうのは、なにも「可愛らしい生き物を手に入れる」ということではなく、ありとあらゆる理不尽に耐える、ということをいうのだと思う。