家族ってなに | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

 家族ってなんだろう。

なんでも言葉の定義から入る私はさっそく辞書をひく(笑)。

【家族】 1.親子・夫婦・兄弟などを基礎として生活をともにする集まり。

      2.旧法で・・(以下略)

だいたいの感じでいうと、一つの家の中で暮らしている人たちのこと、か。

では、家族であるための条件ていうものがあるんだろうか。

その家庭を維持していくために、協力すること?

とすると、協力しないものは家族ではないんだろうか。


何度かこのブログにも書いたことがあるけど、私は高校3年の時に母親から「ごくつぶし」と言われた。それは、私が自分のことばっかりにかまけて、好き勝手なことをしていたから母親が怒ってそう言ったのだけれども。

母親の仕事(家事全般)を手伝いもせず、ただただ、「子供である」というそれだけで、大きな顔をしてこの家にいてはいけないのか、と初めて思い知らされたのだ。


私の母親は、実家が商店を営んでおり、長女でもあったから、ずっと家族のためにいろいろなことをしてきたのだろう。それが当然のこととして育ってきたから、私がのほほんと自分のことだけを考えて暮らしている様子が腹立たしかったのかと今になって思う。


自分のために言い訳すると、私の家は典型的な核家族だった。父と母、私、2人の弟。5人だけで暮らしていた。両方の祖父母は離れた所に住んでおり、長期の休みくらいにしか会えなかった。母は専業主婦で、家のことを全部一人でとりしきっていた。

最近よく「子供には家の仕事を何か手伝わせて家族の一員であるという自覚を持たせましょう」ということを聞くが、私は何一つ、家のことはしなかったし、させてもらえなった。子供がモタモタやるより自分がやった方が早い、と母は思っていたのかもしれない。だから私は、まったくの「お子様」のまま高校生になった。要は使えないやつってことです。そのころになってから、母は私に何かと用事を頼むようになったけれど、やったことないのだもの、ヘマばかりしていた。そのたびに怒られて、私はすっかり委縮していたのだ。そして、「私は何もしなくてもいいのだ」と思うようになっていた。学校の勉強だけやっていた。それしかすることないわけだし。進学校へ進み、大学も当然行くと思っていた。それ以外に道はない、とも思っていた。


私は、そういう自分の存在について、一つも疑問を持っていなかった。この家の子に生まれ、学校へ行って勉強して、この家に住んでいることについて、疑問すら持つことはなかった。空気のように当り前のことだと思っていたのだ。

そんなときの「ごくつぶし」発言。

まあ、びっくりしたのなんの。今思えばいい気なもんであるが、当時は心底驚いた。

「ここに居させてもらうには、何かしなければいけなかったのか」

そんな隠れ条件があるなんて、思いもしなかった。

・・・・・・・そこで奮起して家族のために何かしたならかっこよかったのだが、私がしたことは家を出ることだった。たまたま大学が県外だったので、事を荒立てることなく家を出ることができて、一石二鳥であった。

自分が母親の立場になったとき、条件だけはつけたくない、と思った。

子供が、その家の子供である、というだけで、その家にいられるようにしたかった。

そんなに明確に意図したわけではないけれども、なにかあったときに、最後に胸に残る思いは、「どんなことがあっても、子供を受け入れよう」という思いだった。


そりゃもちろん、日々の生活の中で、手伝いもしないで自分のことばっかりやってる娘に腹を立てないことはない。ちょっとは考えろよなあ、と思うこともしばしばだ。

たとえば今だったら、とんでもない時間に家に帰ってきてシャワーを使う、とか、もう私が洗濯を終えているのに新たに洗濯物を出す、とか。そんなささいなことでも、度重なると、ちょっとはこっちの都合も考えてくれよ、と思う。


私の悪いところ間違っているところは、そう思うだけで実際には娘に強く注意できない、というところだ。彼女がまるっきり私に気を使うことなく好き放題にふるまっているなら文句も言えるのだが、そこが娘の巧妙なところで、ギリギリなんとかなるラインで攻めてくるのだ。「んー、まあ今なら風呂に入っても大丈夫だ」とか「んー、ぎりぎりまだ洗濯が終わってないな」とか。文句いってる間にさっさとすませばいいじゃん、というタイミングでやってくるので、いつも言い損なう。不完全燃焼なのだ。

そういうときに思う。「この子はこの家の子供なのだから、こうやって大きな顔してしたいことする権利があるはずだ」と。

こう思ったからと言ってすっきりしているわけではないので、きっとどこかいびつなんだろうと思うのだが、なにしろ私の頭の中には「ごくつぶし・・し・・し・・」とエコーのかかった声が常にあるために、気持が右往左往してしまうのだ。


ひとが行動するときにはものさしがいる。そのものさしにあわせて、怒ったり喜んだり泣いたり笑ったりするのだ。私には「家庭」に関するものさしがない。あってもすごく短い。だから、「こんなときどうしたらいいんだろう」と思うことがたくさんありすぎて、ほんとに困る。特に、怒る、叱る、に関しては、基本的なものしかないので、そこからはずれた行動を娘がとったりすると、どうしていいかわからなくなる。



家族ってむずかしい。私にとっては、とても難しい代物です。