名鉄の旅や翌日の観光のような1年以上前の話ではなく、最近(2017年11月10日)の旅を記録します。
こんな記事やあんな記事で書いたように筆者は天皇陵を全て訪問することを目標にしています。
京都府についてはコンプリートしましたし、奈良や大阪、時には香川まで遠征したりと一見順調です。
しかし残った陵墓は文字通り散在しており、時間と交通費という壁が立ちはだかりました。
筆者も陵墓訪問ばかりしている訳にはいきませんし、できる限り行ける時にまとめて行って(関西人の恒例表現ではありません)負担を少なくしたいものです。
そこで突如(当日の朝に)計画したのが今回の旅。
タイトル通り、
奈良県桜井市・橿原市・明日香村の天皇陵をまとめて訪問する。
一行でサラッと言いましたが、なんと
初代神武天皇畝傍山東北陵
第2代綏靖天皇桃花鳥田丘上陵
第3代安寧天皇畝傍山西南御陰井上陵
第4代懿徳天皇畝傍山南纖沙溪上陵
第8代孝元天皇劔池嶋上陵
第28代宣化天皇身狹桃花鳥坂上陵
第29代欽明天皇檜隈坂合陵
第32代崇峻天皇倉梯岡陵
第34代舒明天皇押坂内陵
第40代天武天皇・第41代持統天皇檜隈大内陵
第42代文武天皇檜隈安古岡上陵
の12代11陵がこの地域に存在します。漢字が難しすぎてこの画面を見るだけでも目が回りそうです。
まとめはこれぐらいにして、本題に入ります。
量(洒落ではないです)が多いので当然分けます。まずは桜井市から。
桜井編
奈良県桜井市。日本最古の「山辺の道」の拠点として有名ですが筆者は2つの陵墓を訪問するための初訪問になりました。両方とも桜井駅からかなり距離があり、本数の限られたバスで律儀に陵墓までを往復しました。
崇峻天皇倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ、桜井市倉橋)
桜井市コミュニティバスの談山神社へ行く路線の途中にある「倉橋」からすぐです。
崇峻天皇は日本史でおなじみの蘇我馬子に暗殺されてしまった天皇。
ちょうど紅葉の時期で談山神社を目指す老人の集団が桜井駅南口に溜まっていました。
しかしバスは先日の台風の影響で談山神社を含む末端区間が不通。倉橋までは通常運行だったので筆者の行程は狂いませんでしたが、泣く泣くタクシーに乗る彼らの姿はやはりかわいそうでした。
驚いたことに同じバスに「崇峻天皇陵に行く」と話していたおじいさんがいました。恐らく同志なのだと悟りました。(予想通り)本格カメラでやたら長々と撮影し、当然帰りのバスも一緒でした。
同志を見つけて嬉しい気持ちと、なぜ選りに選って被ったのかという若干の敗北感が同居していましたね。天皇陵訪問の醍醐味のひとつはなんといっても(自分勝手ながら)一人の時間ですからね。
果たしてあのおじいさんは淳和天皇が眠る小塩山のあの登山道を登った、もしくは登るのだろうか?
(※赤坂天王山古墳という後述の舒明天皇陵の少し先にある古墳が本当の崇峻天皇陵だという説が学術的には有力です)
舒明天皇押坂内陵(おさかのうちのみささぎ、桜井市忍阪)
桜井駅に戻ったと思ったらわずか10分後に大宇陀行きのバスに乗ります。
例のおじいさんはいませんでした。少しだけ安心。
ここの大字は「忍阪」と書いて「おっさか」と読みます。
降りたバス停は「忍坂」表記、陵墓は「押坂」で「おさか」と読むのでややこしいです。
何個か前のバス停で「外山(とび)」というのもありましたしこの辺りの地名は古い歴史ゆえの独特の名前の響きがありますね。
舒明天皇はあの天智天皇や天武天皇の父です。
裏には万葉歌人として有名な鏡女王(「王女」の表記もあり、藤原鎌足の正妻)の墓、更に奥には舒明天皇皇女の大伴皇女の墓があります。
ここ大伴皇女の墓からの眺めを絶賛する万葉歌人の話が書いてありました。
確かに何百年も殆ど変わらない景色。
決して絶景ではありませんが何より心に響くものがあります。
これからも安らかにお眠りください。
橿原編に続きます。