陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ -15ページ目

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

一言で言うと「龍之介しっかりしろ」

励ましにもならない、無責任なことを言いやがって

そりゃそうだ

どうやったら心に届くか、彼が真剣にこちらに向き直ってくれるのかということだ

安いドラマでよくある、自殺しようとする生徒を屋上で思いとどまらせるという、アレだ

ああいう、ちょっと吐きそうなロマンをやろうというのだ

問題は、どうやったら吐かないで済むかということなのだが

軽口ということが大事だ

龍之介はぜんぜん話なんかきかないから

だって、わかったうえで、やろうとしている

客観的になれ、現実をみろ、大人になれ

それくらいは言われるだろうとおもっているから、さきにもう準備していて言ってしまっている

龍之介の方法はアイロニーというやつだ

わかってやってんだよ、と

つまり、自殺をとめようというひとの手をあらかじめ振り払っている

だから、ちょっと、工夫しないと向こうにはいけないということだ

子供がいるだろう、お前が死んだら残された家族はどうする

いや、家族なんて知らん

そんなものはいらないしほんとうはいない

じゃあなんて言おうか

逆に疑問をふってみる

大人になるってどういうことか

現実とはどういうことか

客観とはどういうことか

生きるってどういうことで死ぬってどういうことなのか

そういうくだらないことを真剣に考えて見せるのもアイロニー?

アイロニーといえばなんでも成立する?

どうも、アイロニーというのには弱点があって、つまり、絶対勝つということだ

優越しているという意識のもつ構造的な「不敗性」自体が、勝負しないダサさをもっている

経験を嗤うやつにろくな奴はいない

現場なめんな

龍之介に言いたいことはたぶんそれに尽きる

現場なめんなの六文字を、音だと七音を、32000字にせよというのだ

馬鹿か

簡潔は知恵の魂なんじゃないのか?

だいたい書けというのなら書く時間をよこせ

腹立つ

話がそれて仕方がない

問題は書き続けることだ

アイロニーが分泌され続ける優越性の閉鎖した意識のようなものであるとしたら、ぼくは

適当に一石を放ってその網を破れば良い

つまんないぜ、それ

ではいったい何がおもしろいんだ?

君もすくなくともおもしろいことがそれではないということを知ってるんじゃあないのか?

勝負しろボケ

勝負ってなんだろう

勝負というのは、勝敗が決まる前に、取り組むということだ

ゲームなのか

ゲームだといってよいかもしれない

人生ゲームだ

人生はゲームか

目的がないから勝敗もない

財貨・威信・権力・情報等を争うゲームではないのか?

そうかもな

そうじゃないかも

じゃあどういう人間がよい、というかそれを目がけるべきモデルといえるのだろう

めがけなくてもいいんじゃない

人生においてだいじなのはなにか

生においてだいじなのはなにか

死なないってこと?

どうもおもしろくないね

いや、面白い必要があるのかしらないけど

面白いってだいじだとおもうんだよな

趣味判断におけるよさのことを面白いといってるきがするけど

イケてるとかしびれるとかヤバイとかそうゆうのとおなじでさ

センスいいねそれ位の意味でおもしろいっていってる

茶の湯だな

何がおもしろいかなんてわかんない?

私がそれがなにかわからずにやってる?

つまり、目的ということだけど

目的がなにかわからないゲーム

そんなのゲームじゃないよ

するとゲームの条件ってのがだいじだ


*


なにがもんだいなんだろう

龍之介は、生きたいと思った?のだけど、生きる方法を模索してだめでしんだ

というか、生きるということを肯定したかった?

ダメで死んだって、餓死とかそういうのならわかるけど、自然死じゃなくて人工的な死なんだからぜんぜん生きようとしていないではないか?

安部公房の赤い繭というのを読んだんだけど、

あの感じ?

ちがうかも

つまり、・・・

死ぬまで頑張れという励ましに対して、死ぬまで頑張ることではなく、頑張りたくないから死というリミットを引っ張ってまえ倒したからがんばらないで済んだってかんじ

なんか変

すげー違和感があってぜんぜん乗れない

あらゆるものに対する嫌悪って、対象としてのあらゆるものに含まれないものがあるだろ

それが他者だろ

いってみれば

冗談じゃないよ

なんでもかんでも思い通りになるとおもうなばか

そんな感じだ


意思に従属する人工を愛することは、煎じ詰めれば自己愛に過ぎない

それに対して「自然」

開放系といってもいいし、予測不能性といってもいい

そこに救いがある

究極の自己愛としての龍之介

その自閉をぶっ壊すところにしか道はひらけない


あえて無意味なものに執着することを通じて、何かに熱中する人をばかにしている

熱中者に対する優越で自己を肯定している

闘争の放棄が即勝利の感覚につながっている

対象に還元されない他者が、それをまるごと粉砕する巨石だ

勝手に構成したものの任意性

でも、それは「現実」ではない

なぜなら現実とは代え難いものだからだ

ほかでもありえたにもかかわらず、そうでしかありえないもの

その動かしがたさの指示が、名だという

現実の動かしがたさとは、現在時における何かのものの動かしがたさなのではない

現に、なにか計画してそれに取り組むということができる

このとき、脳の中の想像は、ある(時点としての)「現在」時におけるものの状況の否定である

にもかかわらず、それが、状況を変化させて、想像を実現したわけだ

ということは、いままさにそのように並んでいるような状況はいくらも動く

べつのようになせる

そして、動かせないものもある

わたしはバニーガールでもオバマでもありえるが、わたしでないことだけはできない

歴史は名の連鎖である

そして名こそは、このような現実性の指示なのだ

非行動によって肯定感を不当に得るやからはまるでだめだ

未決定で不確実な現在と相対して可誤的な選択をするのでなければ生の意味はない


***


「地獄変」の良秀は絵筆をとっては「良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師」

である。

良秀は優れた芸術家だがエゴイスティックである

「生活上の必要」


すでに見知った何者かではなく、異質なものであること
それを極度に恐れ、退けてしまうのではなく、許すこと
勝手に動き始める自律的な生命。
それは端的に良いこと
生命を恐れているくせに、理想の正体を生命と呼び、それを掴まえたいとまで言っている
憧れは絶えていない。
平和(ぶら下がり)や愛(梅毒、汚い病)の可能性もすこし夢見ている
諦念が充満している
意識、狂気、宗教
生命、自然、身体の怒り
実行
無垢な子供に戻れたら


期待するから苦しいのであって、幻滅や絶望に追いやられ
ついには自殺してしまうのだ
目の前の不十分な、未完成な、醜く下品で退屈で行き詰った、息の詰まるような
日常の生活に埋没して満足して思考することをやめるべきだ
俺の人生も、先行きの程度が明らかになった…
諦念なんて悟ったようなことをいうんじゃない
存在とは意識や思考ではなく常にすでにそこにある生活上の実行に他ならない
意識で自殺は止められないのであれば、
自殺は意識的の死であって物質的な身体の先行にも関わらず
それを追い越して殺してしまう
意識されない身体に望みを託すしかない
理性の及ばない身体的な感情の発露としての怒り
狂人の言葉を翻訳すること
意識理性秩序の回収

まだ来ない未来の前で立ち尽くすことが恐ろしいから逃げて、あとで、終わった後の時点にやってきて結果を人ごとに聞いてがっくりしているのは愚かだ
まだわからない時点で闘えよ
狂わせておいてやればよいのだ
そこに内的な合理性を見ようとする
迷妄には光を当て、その全貌を明らかにしなくては

翻訳できないことが救い

そこには意識が届かないから怒りは動物的生命力の原型といえる
賭博といっていい
未決定の潜在性
しかもそれは沈黙ではなく発露
表現外化だからだ
幼い怒りの発露から始まるのでなければ
無意識や狂気を合理的意識に回収する試みの失敗
エゴイズムとしての我を超えるものが、精神を安定させる恒常的な支柱となりうる
人間の尺度を超えたものに懸けるしかない

「地獄変」の良秀は絵筆をとっては「良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師」

である。

けれどもその性格は「吝嗇で、慳貪で、恥知らずで、怠けもので、強慾で――いやその中でも取分け甚しいのは、横柄で高慢で、何時も本朝第一の絵師と申す事を、鼻の先へぶら下げてゐる事でございませう。」というようなもので、人からは決して好かれない。

のみならず、「あの男の負け惜しみになりますと、世間の習慣とか慣例とか申すやうなものまで、すべて莫迦に致さずには置かない」というように、世間に流通している倫理や道徳の類に対してこれらをまったく認めておらず、宗教や祈祷も子供だましくらいにしか思っていない。

しかし、彼には「たつた一つ人間らしい、情愛のある所」が残っている。それが一人娘の小女房に対するまるで「気違いじみた」偏愛である。娘に対する可愛がり方は並大抵のものではない。信心がなく勧進に喜捨をした事さえないのに、娘の衣服や髪飾に対しては惜し気もなく整えてやる。娘への愛はまったく無償であって、それが良秀を最後に世俗の習慣的世界、体制秩序のうちにつなぎとめているものである。逆に言えば、この、最後のくびきを断ち切ることなく、真の意味での法や倫理の矩を超えたところにある境位である「超人」に達することはできないのである。それは、良秀にとって、生に対する未練という意味で唯一の生きるよすがであるとともに、「芸術至上主義」の唯一最後のアキレス腱でもあるのだ。


そして、作品中に登場する芸術技術論としては、絵は見なければ描けない、あるいは、見なければリアリスティックで見る鑑賞者に迫ってくるような本当の傑作は描けないという、「眼にみえるやうな文章」と響きあう認識が示される。

それが「さやうでございまする。私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。よし描けても、得心が参りませぬ。それでは描けぬも同じ事でございませぬか。」という台詞である。だから、良秀は、地獄変の屏風を描こうとすれば、地獄を見なければならないということになる。火事を見て「よぢり不動」を描き、「鉄の鎖に縛いましめられたもの」や「怪鳥に悩まされるもの」を観察して「罪人の呵責に苦しむ様」を類推的に知った。また、毎晩の悪夢で苛みに来る牛頭、馬頭、或は三面六臂の鬼」のために地獄の獄卒もよく親しんでいる。描きたいのは、そして、描くために、目の当たりにしたいのは、火炎に焼かれる娘の姿である。

大殿の嫉妬に基づく復讐のために、そこで焼かれる女房として、良秀の娘が選ばれる。

これには、さすがの良秀も驚き呆然として苦悶する。芥川渾身の、まさに焼け死のうとする愛娘の苦悶の表情をまじまじと見てしまったいたましい良秀の描写である。

「思はず知らず車の方へ駆け寄らうとしたあの男は、火が燃え上ると同時に、足を止めて、やはり手をさし伸した儘、食ひ入るばかりの眼つきをして、車をつゝむ焔煙を吸ひつけられたやうに眺めて居りましたが、満身に浴びた火の光で、皺だらけな醜い顔は、髭の先までもよく見えます。が、その大きく見開いた眼の中と云ひ、引き歪めた唇のあたりと云ひ、或は又絶えず引き攣つてゐる頬の肉の震へと云ひ、良秀の心に交々こも/″\往来する恐れと悲しみと驚きとは、歴々と顔に描かれました。首を刎ねられる前の盗人でも、乃至は十王の庁へ引き出された、十逆五悪の罪人でも、あゝまで苦しさうな顔を致しますまい。これには流石にあの強力の侍でさへ、思はず色を変へて、畏る/\大殿様の御顔を仰ぎました。」

しかし、ここで転回が訪れる。良秀は、最後のくびきを、引きちぎるのである。
「あのさつきまで地獄の責苦に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇んでゐるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――さう云ふ景色に見えました。
 しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳さがございました。でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまはる数の知れない夜鳥でさへ、気のせゐか良秀の揉烏帽子のまはりへは、近づかなかつたやうでございます。恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、不可思議な威厳が見えたのでございませう。」

目の前の愛娘は、抽象化されて、美しい絵を描けるということに対する喜びと恍惚に浸っている。そこには、「獅子王の怒り」に似た怪しげの威厳さえ宿っている。


しかし、この回心はどこからやってきたのだろうか。

良秀が芸術至上主義とも呼ばれる超人の側へと法の線をまたいで越えた瞬間には、その契機となる事件がある。それは猿の自殺である。

「するとその夜風が又一渡り、御庭の木々の梢にさつと通ふ――と誰でも、思ひましたらう。さう云ふ音が暗い空を、どことも知らず走つたと思ふと、忽ち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、鞠のやうに躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこみました。さうして朱塗のやうな袖格子が、ばら/\と焼け落ちる中に、のけ反つた娘の肩を抱いて、帛を裂くやうな鋭い声を、何とも云へず苦しさうに、長く煙の外へ飛ばせました。続いて又、二声三声――私たちは我知らず、あつと同音に叫びました。壁代のやうな焔を後にして、娘の肩に縋つてゐるのは、堀河の御邸に繋いであつた、あの良秀と諢名のある、猿だつたのでございますから。その猿が何処をどうしてこの御所まで、忍んで来たか、それは勿論誰にもわかりません。が、日頃可愛がつてくれた娘なればこそ、猿も一しよに火の中へはひつたのでございませう。」

もともとは、まず、立ち居振舞いが猿のようだとして猿秀という渾名までつけられるほどの良秀に対して、それを逆転させて、反対に飼育されていた猿に良秀という名前がつけられたもので、良秀の娘に救われて以来彼女を慕っていた。娘が夜間に何者かに襲われた際に助けを呼びに行っているように、良秀の娘に対する愛の象徴だったものだ。それが火に入って後追いの自殺を遂げてしまったのだから、それはすなわち「生に対する未練という意味で唯一の生きるよすがであるとともに、「芸術至上主義」の唯一最後のアキレス腱」が切断されたのと同義なのである。猿という表象は、芥川にとって、生きるよすがである生命への志向が「動物的」と感じられたものの反映である。

そのようにして芸術至上主義の最後のくびきが絶たれたために、遂に稀代の傑作である地獄変の屏風図が完成し、また、良秀の生の可能性も閉ざされ燃え尽きてしまうのである。

「それも屏風の出来上つた次の夜に、自分の部屋の梁へ縄をかけて、縊れ死んだのでございます。一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらへるのに堪へなかつたのでございませう。屍骸は今でもあの男の家の跡に埋まつて居ります。尤も小さな標の石は、その後何十年かの雨風に曝されて、とうの昔誰の墓とも知れないやうに、苔蒸してゐるにちがひございません。」