陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ -14ページ目

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

自閉という方法と、その困難


芥川がやろうとしているのはいわば、自閉という方法である。その破産の過程がここに、現れている。

○人間が生きるために必要な内在的な活力のようなものを、娑婆苦に満ちた醜悪な社会関係の地平から引き剥がして、完結した純粋な均質空間中に、永遠に保存しようとしている。
芥川にとっての芸術活動とは、まさに、そういうものだった。
そこでは、万難が排されるのでなければならない。
全方面に対して万能で、完成されている完璧な秩序。未然の排除によって、危機から防衛される。一部の隙なく組み立てられていて、全手筋が解読されている。すべては既に検討され判明となっている。予め全てが決定されているから、絶対に間違うことのない全円性をもち、真善美の理想の有機的な統合として、ある。
それは、経験の事前にありながら、全てが先回りされて既に検討され尽くしているために、事後の観点を先取している。
ノアの方舟のように、何が乗り何が乗らないのか、よく考慮されなくてはならない。未決定なもの、不確かなもの、親しみのない余所余所しいものは、入ってもらっては困る。

芥川はいま、世界の一切に背を向けている。

「あらゆるものに対する嫌悪」の表明とともに、現実からの、永遠の退出を実行する。

世界に住むあらゆる人間は、救いがたく邪悪で愚鈍であるから、そこからの逃走が願われている。
河童の国は、他者との交通のない「自閉する意識の世界」である。

登場する河童の全ては、いってみれば芥川のオルターエゴにすぎず、そこには他者がいないのである。
内面の世界は閉ざされていて、一切外部との交渉をもたない。

不要なもの、無意味なもの、乱雑なもの、不明なものはあらかじめ排除される。

だから、そこには不測の事態は一切起こりえない。

科学の実験において、仮定されるような「理想状態」なのである。

よく慣れていて普通で、穏当で、常識的で親しみのある空間。

自分の寝床のような、自分の延長のような世界。

そこは安心で安全で清潔で行き届いている。

苦労がなく恐怖もない。

穏やかで暖かくあらゆるものが満足されている。

私の好きなもので満ちている。

私の意識にまったくもって統御される人工物の集積。

しかもそこでみられる夢はしばしば、過度に「ロマンティックなもの」なのである。

満足する。

私は映画をみるひとのように、追体験するからだ。

勝利が約束されている。

はらはらどきどきは、したいが、それを、じぶんが直接に、結果がわかることなく経験したいとは思わない。

スポーツ観戦は好きだが、自分がやりたいとは思わない。

遠いところから、まさに当事者のような臨場感を伴って「見る」のが一番だ。

その内面に入り込むという意味で、最も親しいもののようでありながら、助け合うなんてことはない。

ごく一方的な関係に過ぎない。

私がチャンネルをまわし、お前に感情移入することを選択してやっているにすぎない。

すでにわかっている、この「名試合」は、勝ったから、価値があるのだ…。


隅々にまで意識を巡らし、一切の不明なものを排除する必要がある。

何もかもがはじめからわかっていなければならない。

完全なる計画書、行動の前の見積書。

不確実で複雑な世界は、いらないのである。


地面に、足で、線を引く。

この線からこちらには、入ってこないでくれ。

私のことはほうっておいてくれないか。

芥川はいわば、そのように言っている。


僕は誰をも必要としない。

誰からも知られず、誰をも知らず、何も知ることなく、孤独でいたい。

完全なる理想の実現が原理的に不可能であるなら、潔癖な私は、実現のための行動をとりたくない。

経験することそれ自体が、苦痛でしかない。

僕が自分のことを愛しているし、僕は自分によって愛されている。

相互循環、相照らし合う意識は、完全である。

自分の根拠を自分に与えること。

合わせ鏡のような再帰性こそ、無限ではないか?


ユートピアとは、どこにもない場所である。

芥川は、どこかという限定を嫌う。

非限定において、完全を求めている。

どこでもない立場なら、間違うこともあるまい?

生の根拠は、いま、中空に浮いている。

宇宙空間に「静止」する惑星のように、自らの重力によって、自らを支えている。

あらゆる関係の連鎖から断絶された純粋な空間。

完全機関。


現実からの一切の紐帯を断ち切ろうとするとき、困難がやってくる。

「完結」の原理的な不可能性である。


人間がどんなに訴えかけても理解されないとき、採りうる態度は何があるだろうか。

力づくで対応すること、あるいは、ユートピアンのようになって望みを凍結し未来に先送りすること、転向し、体制権力の側に回ってむしろそういう訴え掛ける人を弾圧してまわるか、である。

そこで問題となるのが、「理解から隔絶された狂人」としての「ジャーナリスト」である。



母からの拒絶の原体験からくるのではないだろうか。
思想の全円性
それは閉じた円のように欠けるところのない仕組みをしている。

けれども、どこにも行くことができない。

いつも思う、この
結局、龍之介は真剣に考えてやしない
アリバイ的に、ちょっと考えて見せたに過ぎない

自然?
状況にまかれている
他者との交通がない
自閉、コミュニケーションしろ
あの虐げられた弱者

本当の弱さ
道徳的の弱さ
弱いからできない
弱さを捨てることによってしか
強くなる以外に耐えるすべはない
弱さを排除することは、弱さを克服するのか
死後にも救いなんかないなら死ぬ意味はない
生きて地獄死んで地獄なら、どちらも変わらない
そのとき、問題は、そこからそのひとが、どのような意味を受け取るかということ
生の意味は不毛さ

心のない場所からの脱出
心をすてきれず残ること
心のない場所に心のないままに残ること

現状追認しかない


心をもって生きられるか

私たちの生活は

心でそれと認めがたいものによってせいりつしている

みんなそう望むような望み

望む心は生活からずれている

そのズレのくりこみ


非妥協テロ

逆テロ

ユートピアン

心と身体分離する


かっぱを追いかける動物的生命力

河童の国、人口世界

狂人精神病院


理想芸術追求

不可能

死ぬ

理想抜きの生活


理想テロ

積極的には

生活優先すること逆テロ弾圧

ユートピアン


理想を持つことは孤独だ

ジャーナリストは説得の努力を払う

成果主義的、直接行動

自殺かテロ


宗教

承認もと

教会、大衆

この承認、ジャーナリズム、訴えること

説得の努力


心の支え、生存の根拠、人間の存在を支える内在的な活力といってもよい

心なのか生命なのか


ユートピアン、

どこにもないところにたつこと

それは、すべてのひとにできることではないし、

すくなくとも、生活から自由なだけの、金銭が必要だ

あすの米びつのために、日々の必要に追われるなかで本来性から遠い人は、

では、なぜ生きるのか

彼らの生に意味を見出すことのできない思想にどんな価値がある?


明らかにものの道理が通らない、まさに不当な社会構造の上に、

わたしの生活が成立しているのだとして、では、そんな私には、どんな思想が可能なのか?

モラルはありうるのか


俺にはなんでもわかってるって感じのあのみじめったらしい鈍感さ



死んでも意味がないのだとしたら、また、そのことをよく理解しているなら、ではなぜ死ぬのだろう

アイロニー?


芸術が不可能なとき、龍之介が生きる道はあるのか

自分自身による支えが芸術至上主義なるものの内実なら

よそに根拠を求めることは、なんと呼ばれるだろう?

それが詩的印象なのだろうか?

狂人の母

動物的な居直り

自然という他者?

動物になりたい


人工の世界、意識、観念、自閉

トックは自殺、影、理想

他の河童は生活教によって生きる?

現実の社会身体、関係、他者、

狂人、テロリスト、自殺者、自分でやる、

ふつうのひと、没理想、動物、心を失う、人にやってもらう


漁師、心を捨てる

音楽家、うちなる自然

雌の河童、女性崇拝、母

末後の目、諦念

結論○一言で言うと「龍之介しっかりしろ」

励ましにもならない、無責任なことを言いやがって

そりゃそうだ


○どうやったら心に届くか、彼が真剣にこちらに向き直ってくれるのかということだ

安いドラマでよくある、自殺しようとする生徒を屋上で思いとどまらせるという、アレだ

ああいう、ちょっと吐きそうなロマンをやろうというのだ

問題は、どうやったら吐かないで済むかということなのだが

軽口ということが大事だ

龍之介はぜんぜん話なんかきかないから

だって、わかったうえで、やろうとしている


○客観的になれ、現実をみろ、大人になれ

それくらいは言われるだろうとおもっているから、さきにもう準備していて言ってしまっている

龍之介の方法はアイロニーというやつだ

わかってやってんだよ、と


01○「河童」は、生きようとする検討の失敗と総括できる?

それは安易な社会批評ではなく、ごく個人的な問題を扱っているといえる

つまり、自殺をとめようというひとの手をあらかじめ振り払っている

だから、ちょっと、工夫しないと向こうにはいけないということだ

子供がいるだろう、お前が死んだら残された家族はどうする

いや、家族なんて知らん

そんなものはいらないしほんとうはいない

こつこつぜんぶ検討していて、龍之介としては、いや、死ぬしかない

とおもって死んだということになっている

まず、ほんとうにそうなのか

ちゃんとみてみよう


02○河童の内容

龍之介は、生きたいと思った?のだけど、生きる方法を模索してだめでしんだ

というか、生きるということを肯定したかった?

ダメで死んだって、餓死とかそういうのならわかるけど、自然死じゃなくて人工的な死なんだからぜんぜん生きようとしていないではないか?

安部公房の赤い繭というのを読んだんだけど、

あの感じ?

ちがうかも

つまり、・・・

死ぬまで頑張れという励ましに対して、死ぬまで頑張ることではなく、頑張りたくないから死というリミットを引っ張ってまえ倒したからがんばらないで済んだってかんじ

なんか変

すげー違和感があってぜんぜん乗れない

あらゆるものに対する嫌悪って、対象としてのあらゆるものに含まれないものがあるだろ

それが他者だろ

いってみれば

冗談じゃないよ

なんでもかんでも思い通りになるとおもうなばか

そんな感じだ


総括としては、意識にこだわるあまり、意識の統括下におかれないものを見落としている

意思に従属する人工を愛することは、煎じ詰めれば自己愛に過ぎない

それに対して「自然」

開放系といってもいいし、予測不能性といってもいい

そこに救いがある

究極の自己愛としての龍之介

その自閉をぶっ壊すところにしか道はひらけない


あえて無意味なものに執着することを通じて、何かに熱中する人をばかにしている

熱中者に対する優越で自己を肯定している

闘争の放棄が即勝利の感覚につながっている

対象に還元されない他者が、それをまるごと粉砕する巨石だ

勝手に構成したものの任意性

でも、それは「現実」ではない

なぜなら現実とは代え難いものだからだ

ほかでもありえたにもかかわらず、そうでしかありえないもの

その動かしがたさの指示が、名だという

現実の動かしがたさとは、現在時における何かのものの動かしがたさなのではない

現に、なにか計画してそれに取り組むということができる

このとき、脳の中の想像は、ある(時点としての)「現在」時におけるものの状況の否定である

にもかかわらず、それが、状況を変化させて、想像を実現したわけだ

ということは、いままさにそのように並んでいるような状況はいくらも動く

べつのようになせる

そして、動かせないものもある

わたしはバニーガールでもオバマでもありえるが、わたしでないことだけはできない

歴史は名の連鎖である

そして名こそは、このような現実性の指示なのだ

非行動によって肯定感を不当に得るやからはまるでだめだ

未決定で不確実な現在と相対して可誤的な選択をするのでなければ生の意味はない


○じゃあなんて言おうか

逆に疑問をふってみる

大人になるってどういうことか

現実とはどういうことか

客観とはどういうことか

生きるってどういうことで死ぬってどういうことなのか


○そういうくだらないことを真剣に考えて見せるのもアイロニー?

アイロニーといえばなんでも成立する?

どうも、アイロニーというのには弱点があって、つまり、絶対勝つということだ

優越しているという意識のもつ構造的な「不敗性」自体が、勝負しないダサさをもっている

経験を嗤うやつにろくな奴はいない



アイロニーが分泌され続ける優越性の閉鎖した意識のようなものであるとしたら、ぼくは

適当に一石を放ってその網を破れば良い

つまんないぜ、それ

ではいったい何がおもしろいんだ?

君もすくなくともおもしろいことがそれではないということを知ってるんじゃあないのか?

勝負しろボケ

勝負ってなんだろう

勝負というのは、勝敗が決まる前に、取り組むということだ

ゲームなのか

ゲームだといってよいかもしれない

人生ゲームだ

人生はゲームか

目的がないから勝敗もない

財貨・威信・権力・情報等を争うゲームではないのか?

そうかもな

そうじゃないかも

じゃあどういう人間がよい、というかそれを目がけるべきモデルといえるのだろう

めがけなくてもいいんじゃない

人生においてだいじなのはなにか

生においてだいじなのはなにか

死なないってこと?

どうもおもしろくないね

いや、面白い必要があるのかしらないけど

面白いってだいじだとおもうんだよな

趣味判断におけるよさのことを面白いといってるきがするけど

イケてるとかしびれるとかヤバイとかそうゆうのとおなじでさ

センスいいねそれ位の意味でおもしろいっていってる

茶の湯だな

何がおもしろいかなんてわかんない?

私がそれがなにかわからずにやってる?

つまり、目的ということだけど

目的がなにかわからないゲーム

そんなのゲームじゃないよ

するとゲームの条件ってのがだいじだ


*


・・・


ところで、

龍之介もあれだ、

あらゆる者に対する嫌悪といいつつ

肯定しているものもあるのではないか?

たとえば、あらゆるものに対する嫌悪、拒絶が、手をはらいのける自分の優越という

自己愛を隠しとおしているように

自己愛だけは冥土までもっていこうとしている

で、自己愛の変奏として、河童たちにたいする共感がある

いったい芥川にとってかっぱとはなんであり

河童を何ものからなぜ弁護しようとするのかということだ

なにがいいたい?

それをとらえないと論とならない

ぼくが批評をするのなら

そこに批判がなければならない

なにが批評となるだろう

ぼくが僕の生活を、作品にぶつけることによって、は一つの答えだろう

考える時間なんてないよとうそぶきながら、時間のない生活なるものをおくこと

それで「はかる」しか、いまのぼくには方法がない


あるいは、嫌悪するなら、はらいのける様子さえみせずにしんでいればよい

そこに顕示がある

だって、将軍?において、いっていたではないか?

河童などの作品や、遺書なんていうみせびらかしはださいぜって


さらに、「自己愛」の掘り下げが必要だ

どういう自己愛なのかそれはどこからきたのか

母の前の子供になれなかったとおもっている

でも、それを子供にぶつけていいわけがないではないか?

母なし仔牛の前のカウボーイは、母のようにふるまったではないか?

子のまえの大人となること

そのじぶんのすがたのなかに、そういうフォームでシュートしようとするイメージの中には、

君自身が夢見た理想の影が保存されている

理想が負けて幻滅したとしても、あなたの目の中には、理想は生きている

これはぼくの理想とはちがうという否定のみぶりの根拠として、そうではないというはかりのほうに、理想が映っている

理想の保存というのはそのようにしてしか、いま、ありえないかもしれない

現代という、幻滅の連続、魂の摩耗とその結果としての凍結・・・