自閉という方法と、その困難
芥川がやろうとしているのはいわば、自閉という方法である。その破産の過程がここに、現れている。
○人間が生きるために必要な内在的な活力のようなものを、
芥川にとっての芸術活動とは、まさに、そういうものだった。
そこでは、万難が排されるのでなければならない。
全方面に対して万能で、完成されている完璧な秩序。
それは、経験の事前にありながら、
ノアの方舟のように、何が乗り何が乗らないのか、
芥川はいま、世界の一切に背を向けている。
「あらゆるものに対する嫌悪」の表明とともに、現実からの、永遠の退出を実行する。
世界に住むあらゆる人間は、救いがたく邪悪で愚鈍であるから、そこからの逃走が願われている。
河童の国は、他者との交通のない「自閉する意識の世界」である。
登場する河童の全ては、いってみれば芥川のオルターエゴにすぎず、そこには他者がいないのである。
内面の世界は閉ざされていて、一切外部との交渉をもたない。
不要なもの、無意味なもの、乱雑なもの、不明なものはあらかじめ排除される。
だから、そこには不測の事態は一切起こりえない。
科学の実験において、仮定されるような「理想状態」なのである。
よく慣れていて普通で、穏当で、常識的で親しみのある空間。
自分の寝床のような、自分の延長のような世界。
そこは安心で安全で清潔で行き届いている。
苦労がなく恐怖もない。
穏やかで暖かくあらゆるものが満足されている。
私の好きなもので満ちている。
私の意識にまったくもって統御される人工物の集積。
しかもそこでみられる夢はしばしば、過度に「ロマンティックなもの」なのである。
満足する。
私は映画をみるひとのように、追体験するからだ。
勝利が約束されている。
はらはらどきどきは、したいが、それを、じぶんが直接に、結果がわかることなく経験したいとは思わない。
スポーツ観戦は好きだが、自分がやりたいとは思わない。
遠いところから、まさに当事者のような臨場感を伴って「見る」のが一番だ。
その内面に入り込むという意味で、最も親しいもののようでありながら、助け合うなんてことはない。
ごく一方的な関係に過ぎない。
私がチャンネルをまわし、お前に感情移入することを選択してやっているにすぎない。
すでにわかっている、この「名試合」は、勝ったから、価値があるのだ…。
隅々にまで意識を巡らし、一切の不明なものを排除する必要がある。
何もかもがはじめからわかっていなければならない。
完全なる計画書、行動の前の見積書。
不確実で複雑な世界は、いらないのである。
地面に、足で、線を引く。
この線からこちらには、入ってこないでくれ。
私のことはほうっておいてくれないか。
芥川はいわば、そのように言っている。
僕は誰をも必要としない。
誰からも知られず、誰をも知らず、何も知ることなく、孤独でいたい。
完全なる理想の実現が原理的に不可能であるなら、潔癖な私は、実現のための行動をとりたくない。
経験することそれ自体が、苦痛でしかない。
僕が自分のことを愛しているし、僕は自分によって愛されている。
相互循環、相照らし合う意識は、完全である。
自分の根拠を自分に与えること。
合わせ鏡のような再帰性こそ、無限ではないか?
ユートピアとは、どこにもない場所である。
芥川は、どこかという限定を嫌う。
非限定において、完全を求めている。
どこでもない立場なら、間違うこともあるまい?
生の根拠は、いま、中空に浮いている。
宇宙空間に「静止」する惑星のように、自らの重力によって、自らを支えている。
あらゆる関係の連鎖から断絶された純粋な空間。
完全機関。
現実からの一切の紐帯を断ち切ろうとするとき、困難がやってくる。
「完結」の原理的な不可能性である。
人間がどんなに訴えかけても理解されないとき、採りうる態度は何があるだろうか。
力づくで対応すること、あるいは、ユートピアンのようになって望みを凍結し未来に先送りすること、転向し、体制権力の側に回ってむしろそういう訴え掛ける人を弾圧してまわるか、である。
そこで問題となるのが、「理解から隔絶された狂人」としての「ジャーナリスト」である。
母からの拒絶の原体験からくるのではないだろうか。
思想の全円性
それは閉じた円のように欠けるところのない仕組みをしている。
けれども、どこにも行くことができない。