批判 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

結論○一言で言うと「龍之介しっかりしろ」

励ましにもならない、無責任なことを言いやがって

そりゃそうだ


○どうやったら心に届くか、彼が真剣にこちらに向き直ってくれるのかということだ

安いドラマでよくある、自殺しようとする生徒を屋上で思いとどまらせるという、アレだ

ああいう、ちょっと吐きそうなロマンをやろうというのだ

問題は、どうやったら吐かないで済むかということなのだが

軽口ということが大事だ

龍之介はぜんぜん話なんかきかないから

だって、わかったうえで、やろうとしている


○客観的になれ、現実をみろ、大人になれ

それくらいは言われるだろうとおもっているから、さきにもう準備していて言ってしまっている

龍之介の方法はアイロニーというやつだ

わかってやってんだよ、と


01○「河童」は、生きようとする検討の失敗と総括できる?

それは安易な社会批評ではなく、ごく個人的な問題を扱っているといえる

つまり、自殺をとめようというひとの手をあらかじめ振り払っている

だから、ちょっと、工夫しないと向こうにはいけないということだ

子供がいるだろう、お前が死んだら残された家族はどうする

いや、家族なんて知らん

そんなものはいらないしほんとうはいない

こつこつぜんぶ検討していて、龍之介としては、いや、死ぬしかない

とおもって死んだということになっている

まず、ほんとうにそうなのか

ちゃんとみてみよう


02○河童の内容

龍之介は、生きたいと思った?のだけど、生きる方法を模索してだめでしんだ

というか、生きるということを肯定したかった?

ダメで死んだって、餓死とかそういうのならわかるけど、自然死じゃなくて人工的な死なんだからぜんぜん生きようとしていないではないか?

安部公房の赤い繭というのを読んだんだけど、

あの感じ?

ちがうかも

つまり、・・・

死ぬまで頑張れという励ましに対して、死ぬまで頑張ることではなく、頑張りたくないから死というリミットを引っ張ってまえ倒したからがんばらないで済んだってかんじ

なんか変

すげー違和感があってぜんぜん乗れない

あらゆるものに対する嫌悪って、対象としてのあらゆるものに含まれないものがあるだろ

それが他者だろ

いってみれば

冗談じゃないよ

なんでもかんでも思い通りになるとおもうなばか

そんな感じだ


総括としては、意識にこだわるあまり、意識の統括下におかれないものを見落としている

意思に従属する人工を愛することは、煎じ詰めれば自己愛に過ぎない

それに対して「自然」

開放系といってもいいし、予測不能性といってもいい

そこに救いがある

究極の自己愛としての龍之介

その自閉をぶっ壊すところにしか道はひらけない


あえて無意味なものに執着することを通じて、何かに熱中する人をばかにしている

熱中者に対する優越で自己を肯定している

闘争の放棄が即勝利の感覚につながっている

対象に還元されない他者が、それをまるごと粉砕する巨石だ

勝手に構成したものの任意性

でも、それは「現実」ではない

なぜなら現実とは代え難いものだからだ

ほかでもありえたにもかかわらず、そうでしかありえないもの

その動かしがたさの指示が、名だという

現実の動かしがたさとは、現在時における何かのものの動かしがたさなのではない

現に、なにか計画してそれに取り組むということができる

このとき、脳の中の想像は、ある(時点としての)「現在」時におけるものの状況の否定である

にもかかわらず、それが、状況を変化させて、想像を実現したわけだ

ということは、いままさにそのように並んでいるような状況はいくらも動く

べつのようになせる

そして、動かせないものもある

わたしはバニーガールでもオバマでもありえるが、わたしでないことだけはできない

歴史は名の連鎖である

そして名こそは、このような現実性の指示なのだ

非行動によって肯定感を不当に得るやからはまるでだめだ

未決定で不確実な現在と相対して可誤的な選択をするのでなければ生の意味はない


○じゃあなんて言おうか

逆に疑問をふってみる

大人になるってどういうことか

現実とはどういうことか

客観とはどういうことか

生きるってどういうことで死ぬってどういうことなのか


○そういうくだらないことを真剣に考えて見せるのもアイロニー?

アイロニーといえばなんでも成立する?

どうも、アイロニーというのには弱点があって、つまり、絶対勝つということだ

優越しているという意識のもつ構造的な「不敗性」自体が、勝負しないダサさをもっている

経験を嗤うやつにろくな奴はいない



アイロニーが分泌され続ける優越性の閉鎖した意識のようなものであるとしたら、ぼくは

適当に一石を放ってその網を破れば良い

つまんないぜ、それ

ではいったい何がおもしろいんだ?

君もすくなくともおもしろいことがそれではないということを知ってるんじゃあないのか?

勝負しろボケ

勝負ってなんだろう

勝負というのは、勝敗が決まる前に、取り組むということだ

ゲームなのか

ゲームだといってよいかもしれない

人生ゲームだ

人生はゲームか

目的がないから勝敗もない

財貨・威信・権力・情報等を争うゲームではないのか?

そうかもな

そうじゃないかも

じゃあどういう人間がよい、というかそれを目がけるべきモデルといえるのだろう

めがけなくてもいいんじゃない

人生においてだいじなのはなにか

生においてだいじなのはなにか

死なないってこと?

どうもおもしろくないね

いや、面白い必要があるのかしらないけど

面白いってだいじだとおもうんだよな

趣味判断におけるよさのことを面白いといってるきがするけど

イケてるとかしびれるとかヤバイとかそうゆうのとおなじでさ

センスいいねそれ位の意味でおもしろいっていってる

茶の湯だな

何がおもしろいかなんてわかんない?

私がそれがなにかわからずにやってる?

つまり、目的ということだけど

目的がなにかわからないゲーム

そんなのゲームじゃないよ

するとゲームの条件ってのがだいじだ


*


・・・


ところで、

龍之介もあれだ、

あらゆる者に対する嫌悪といいつつ

肯定しているものもあるのではないか?

たとえば、あらゆるものに対する嫌悪、拒絶が、手をはらいのける自分の優越という

自己愛を隠しとおしているように

自己愛だけは冥土までもっていこうとしている

で、自己愛の変奏として、河童たちにたいする共感がある

いったい芥川にとってかっぱとはなんであり

河童を何ものからなぜ弁護しようとするのかということだ

なにがいいたい?

それをとらえないと論とならない

ぼくが批評をするのなら

そこに批判がなければならない

なにが批評となるだろう

ぼくが僕の生活を、作品にぶつけることによって、は一つの答えだろう

考える時間なんてないよとうそぶきながら、時間のない生活なるものをおくこと

それで「はかる」しか、いまのぼくには方法がない


あるいは、嫌悪するなら、はらいのける様子さえみせずにしんでいればよい

そこに顕示がある

だって、将軍?において、いっていたではないか?

河童などの作品や、遺書なんていうみせびらかしはださいぜって


さらに、「自己愛」の掘り下げが必要だ

どういう自己愛なのかそれはどこからきたのか

母の前の子供になれなかったとおもっている

でも、それを子供にぶつけていいわけがないではないか?

母なし仔牛の前のカウボーイは、母のようにふるまったではないか?

子のまえの大人となること

そのじぶんのすがたのなかに、そういうフォームでシュートしようとするイメージの中には、

君自身が夢見た理想の影が保存されている

理想が負けて幻滅したとしても、あなたの目の中には、理想は生きている

これはぼくの理想とはちがうという否定のみぶりの根拠として、そうではないというはかりのほうに、理想が映っている

理想の保存というのはそのようにしてしか、いま、ありえないかもしれない

現代という、幻滅の連続、魂の摩耗とその結果としての凍結・・・