さようなら、超人たち | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ハクロへ


ぼくは自分のニーチェ理解がぜんぜん浅かったことがよくわかりました

ちゃんと勉強しなおさないとなーとおもった


で、まず、いまさらだけども、「超人」というか、ハクロの言う「こういうふうにすればいいだろ」ってことは、すごいよくわかるような気がしてます
実際、ぼくも大体同じようなことを考えて毎日生きているというか、日ごとに変わってやろう、自分の可能性を試してやろうと思って僕なりに頑張っています


また、ぼくも、「超人」をひろめようというか、思考停止するひとびとを揺り起こしてやろうというようなことを考えたことがあります

(「君が言ってることは僕がとうに考えたことです」って応酬はすごいアレなんですけども)


こうもりくんの弁明

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10701453817.html


Lead me to your door.

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10427258929.html


「こうもり」とか「不穏な目覚め」であるとかがそれにあたります

が、その立場を捨てて転向することになりました

なぜか

二つです

現実の中で力をもちえないのではないかとおもったこと

それから、そうした立場が「古い」「つまらない」ものなのではないのか、そうではなくて逆に日常生活のうちに米櫃のために生きる大衆の生こそむつかしいものなのではないのか、ということを、吉本隆明であるとか、内田樹であるとかに説得されたこと

古いものであるというのは、それって「ポスト構造主義」じゃないのということです

ちゃんと名前があるんです

名前があるということはそれがなんであるかがわかっていることである、なんであるかが明らかになるのは「棺を蓋いて事定まる」というように、すでに死んでいるってことです


動物園に行こう

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10679169555.html


And we can stay all day!

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10682048075.html


紙コップに冷たい水を注いで舐めるようにそれを飲むこと

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10682717614.html


碧山で月に吼えていても、人間(じんかん)はなんにも変わらないことを痛感したのです


思想が現実の内に力をもつにはどうすればよいのか

現実に生きる、社会を構成する「ただの人」を肯定すること、「ただの人」を理想的な「超人」に優先することから始めるほかありません

「ただの人」を肯定するということは、「ただの人」と「超人」との思想的到達点が一致(ないし「ただのひと」が優先

)することを認めることです

そのためには知性を知識から分ける、量的なものであることを否定する必要があります

問題は知っているかどうかではなくて、(何かしらのかたちで)考えているかどうか、問いに答えているかどうかということだ


ぼくにできるのは、みんなを揺り起こそうとするのではなくて、ひとりで黙って強い振りをすることだ


伏姫

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10687256108.html


また会おう!