超人は現実に可能か…? | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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ハクロへ
ごめん、今回ちょっとしんどかった
若干適当になったけど、これでも相当丁寧に読んだぞ
とりあえず最初にいっておきたいのは、「超人」に到るニーチェの道徳批判とは、既存の外部の善悪基準を無反省に内面化する人々に対する批判であったことを思い出してほしいということだ
なんであれ、人に言う前にまず自分がそのようにできているかを反省することからはじめるべきである
(もちろん、ぼくもあんまり人のことをいえないのだが…)
「複数の人間を同じものとして扱うのは大変危険」
「思考(たぶん「反省」)する頻度が増せば、素晴らしい」
「愛のその両面性を考えたことがないと不幸が生まれる可能性が大いにある」
「自分は愛を知っているとふんぞり返っていることが不都合を生みだす」

これらは、なぜ、そう思うの?
ニーチェ以後、よいとかわるいとかいうことは、なぜそうなのか、せめて他人を説得する最低限の努力が伴っていなければならない
上から順に、たとえば、
人間をカテゴライズしてなにがわるい
無反省でなにがわるい
他人が不幸になろうがしったことではない
愛を知っているとふんぞり返ってなにがわるい

道徳の押し付けこそニーチェに嫌われるぞ
失礼だけど、ちょっとナイーブすぎるようにおもう
価値を不問の前提に含めてはならない

で、寄り添っていると頭がパンクしそうだが、勝手に議論を整理すると、
超人と、超人化しつつある現実の人間と、資本家とを比べている

超人について
超人は純粋に理念的なものであって現実化は不可能である

さきのこの批判はそのまんま生きていると思うけど、見てみよう
「そうであれば目的的時間認識と親和的なのではないか
すべての時間は何かのための時間であるとされる。時間が確かさを得る根拠がつぎつぎにさらなる目的へと投げられていくために、転じて時間が手段化される」
と、先にぼくが書いたのは、何か特定の、一つの目的についてうんぬんということではなくて、何であれ、ある行為をその外部の何かべつのものへと目がける(-を目的とする)出来事として見なすことは、その根拠、たしかさをすべて破壊することであるということだ
「ねばならない」という当為は、「目的」ではないのか?
超人はまさに、「越え続けていく」という外的な要素に服従した存在なのではないのか?
だから、超人なるものもさして自由ではないように思われた
超人は確かに全てを積極的に受け入れはするけれども、超人が目的を持っていることにはならない
超人は何か一つのものを他よりも重要であるとすることはないからだ
超人の条件は「目的を超えていかなければならない」としたがそれは強迫観念ではない

超人も「ルールに従わない」というルールに従っているのだから、服従=主体のひとつでしかないのではないか?
その通りである
「「ルールに従わない」というルール」にも従わない試みはするけれども結局は失敗する
「超人は当の超人を超えられるか」を考えればわかる
条件とは「~の限りにおける」という限定だ
とりあえずぼくは、その限界を設ける基準点をその外部へと目がけるところのそれ、「目的」とよんでいる
目的と条件は厳密にはちがうものだとおもうのだけれど、ある程度似たものではないか
「超人」は誰も到達しえないものだからこそ、人々の差異を一旦相対化できる
従って「超人」という目線があったとすれば、我々凡俗はみな同じ、そこには差異がない
これはむしろ神の前の平等に近いだろう

神を立てないでくれ
ニーチェが斥けたのは「神」だぞ

「神の死」以後、あらゆる価値(基準)は失効した
AとnotAとを分けること、評価することはできない
ここから決して戻らないことが、「神の遠さ」を、形而上学を立てないことがニーチェの課題だったのではないのか(おそらくその試みは失敗に終るのだが…)?

その基準では分けられないことを知りながらも、ハクロがわざわざ「超人」という概念を持ち出したのは、
「分けることを目的としていないから基準を立てても一定の意味があるし、分ける必要がないから基点を定める必要もない」からである?
だめだ、ごめん結論が意味不明
基準とは何かをべつの何かと「分ける」ための基準であるし、何かを分節するたびに参照されるのでなければそれは「基準」とは呼ばれない
言うまでもないけれども、基準が基準としての意味をもつのはそれが分けることを目的とするかぎりである

「超人化しつつある現実の人間」とは資本家のことか?
依然その通りであるとぼくはおもう
何か(現実にある)前提を超えていこうとするものは「超人」ではなく、「超人化しつつある人間」にすぎない
現実にいる人間はつねになにかしらの枠のうちにいる
たとえばそのひとつとして資本主義というルールの「中で」生きるのが資本家である

完全な超人であればなにか失敗したときにその経験を失敗として価値づけせず、受け入れる(?)ことができる
けれども、現実の内にいる「超人化しつつある人間」はなにかしらのルールに縛られている
現実から自由であるか否かということが超人と超人化しつつある人間のちがいである


対立する両者のどちらも正しい可能性が出てきたとき、両者の前提そのものを吟味しようとする動きが現れそれぞれの立場を超克することができる

カントのアンチノミーだね
わかるけど、あれもこれも同じだといえばいいってもんじゃないでしょ
相対化されるって考えるのをやめるということと同義であると思うのだが
思考の外部へとジャンプせんとする超人は白痴に似ている