ハクロへ
ごめん、酔ってて漏れなくだぶりなく書けるかわからないが、間を空けないこと、書き続けることがなかなか重要であるようにおもうので、書く
鉄は熱いうちに打てという
*
ぼくは「超人」は、純粋に概念的なものであると考えている
したがって、「万人超人化」を現実の問題の解決策として示すことは無理があると思う
なぜ超人が純粋に概念的、つまり、実際には不可能な、机上の空論であるというのか
超人は一つの目的に縛られない。
それはニーチェも同じはず。
一つの目的に向かって成長を目指す者は、
超人ではない。
その目的すらも超えていかなければならないのだ。
「そうであれば目的的時間認識と親和的なのではないか
すべての時間は何かのための時間であるとされる。時間が確かさを得る根拠がつぎつぎにさらなる目的へと投げられていくために、転じて時間が手段化される」
と、先にぼくが書いたのは、何か特定の、一つの目的についてうんぬんということではなくて、何であれ、ある行為をその外部の何かべつのものへと目がける(-を目的とする)出来事として見なすことは、その根拠、たしかさをすべて破壊することであるということだ
超人は一つの目的に縛られない。
それはニーチェも同じはず。
一つの目的に向かって成長を目指す者は、
超人ではない。
その目的すらも超えていかなければならないのだ。
「そうであれば目的的時間認識と親和的なのではないか
すべての時間は何かのための時間であるとされる。時間が確かさを得る根拠がつぎつぎにさらなる目的へと投げられていくために、転じて時間が手段化される」
と、先にぼくが書いたのは、何か特定の、一つの目的についてうんぬんということではなくて、何であれ、ある行為をその外部の何かべつのものへと目がける(-を目的とする)出来事として見なすことは、その根拠、たしかさをすべて破壊することであるということだ
「ねばならない」という当為は、「目的」ではないのか?
超人はまさに、「越え続けていく」という外的な要素に服従した存在なのではないのか?
だから、超人なるものもさして自由ではないように思われた
また、
ブルジョワジー=超人というわけではない。
資本主義というルールに縛られているかぎりは
超人ではない。
資本主義というルールに縛られているかぎりは
超人ではない。
とのことであるけれども、資本主義を侮ってはいけないのではないかとおもう
なぜなら資本主義こそは、これまでの人類史において、現実に成功した最も無臭で普遍的なシステムであるからである
超人に最も近い「無臭」性を備えているのではないか?
また、その格たる「資本」という、「絶えざる自己超克」「無限の先延ばし」は、超人のそれとよく似ているという先のぼくの指摘は、いぜん生きていると思う
ぜひ答えて欲しい
資本の性格は超人に似ていないか?
そうであれば、そのエートスを最も精確に体現した資本家を、超人に似ていると僕が考えたのは、それほど無理のあることではないとおもうのだが。
*
さてそのルールというか前提だけど、
端的に言うと、
「金持ちは悪くない、むしろ善だ。」
というのが、その一つだろう。
もしかしたら他にあるかもしれないけど
これが一番大きいと思う。
資本主義の発生はプロテスタンティズムの発生に因っている。
そこで、用いられたのは、
「現世で自分の天職を全うすることは、
神への奉仕である。
そして、そこで得た金が、
神への貢献度の指標となるが故に、
蓄財は罪ではない。」
という教説。
ここから資本主義が始まっている。
端的に言うと、
「金持ちは悪くない、むしろ善だ。」
というのが、その一つだろう。
もしかしたら他にあるかもしれないけど
これが一番大きいと思う。
資本主義の発生はプロテスタンティズムの発生に因っている。
そこで、用いられたのは、
「現世で自分の天職を全うすることは、
神への奉仕である。
そして、そこで得た金が、
神への貢献度の指標となるが故に、
蓄財は罪ではない。」
という教説。
ここから資本主義が始まっている。
プロ倫。
仰るとおりだろう
たしかに「蓄財は正しい」というプロテスタンティズムが用意した論理が資本主義を可能にした
そして、だから、持てる人がもはや持たざる人に転落するほどに分配するのでなければ、集中した資本を分散させるのでなければ、資本主義への批判とはならないのではないのかと僕は考えるのである
*
超人は富によって規定されるわけではないから
超人がいくら富を分配しようと彼は超人である。
従って、超人でなくなるほどに分配することは不可能であるし、たとえ不可能であっても、
富を分配し続ける限り、
資本主義の掲げる「富の集中の許容」というテーゼを批判し続けることができるため、
特に問題はないと思う。
真の批判は、批判されるべき状況の打開を含意するのであって、批判「し続ける」ことを目的にすることはない
状況を変えなければそれは批判ではないし、批判として死んでいるのであれば、たとえば「超人」という100年以上前の埃を被った「古い」概念をわざわざ引っ張り出してくることもないだろう
(ちょっと汚い批判のしかたなので補足しておくと、「実践」ということが今ぼくの中ですごく大きな問題となっていて、少しずつ動き始めています。そしてハクロをぜひ勧誘したいなーとおもってます)
*
超人という言葉を避けるならば、
禅人といってもいいけど、
今のところは、ニーチェも禅もさしたる違いはないように僕は思っている。
(ニーチェもまたある種の固定観念からは脱していないとは思うけど。)
一部の特権的な人がいるかいないか。
禅の思想では、
悟りきることがない、とされる。
「私は悟った」と思った瞬間に「私」は何も悟っていないことになる。
禅の思想とニーチェがどう「同じ」なのかわからないので、なんとも答えられない
また、「特権」と禅がどうつながるのかもわからなかった
「特権」については次項で答える
*
僕が「愛」が難しいだとか、「超人」とかを持ち出すのも、
自分が、他人を「愛」せるとか、自分は「超人」であるとか、そういうことを言いたいわけではなくて、
そういうことに気づくことによって、自分を含めた世界の相対化、即ち、今まで確固として正しいと思っていた存在、それは理念であったり、目標であったりするかもしれないけど、の揺らぎが起こり始める。
その中では、
善悪の境界を含む、ありとあらゆる境界が溶けはじめ、それによって個々人につけられたラベル、例えば「あいつは悪い/いい奴だ」などのレッテルを破壊することができるようになるのだ。
だから「超人」とは言っても、
この世の中は超人と超人でない人に分けられると言いたいわけではないのです。
自分が、他人を「愛」せるとか、自分は「超人」であるとか、そういうことを言いたいわけではなくて、
そういうことに気づくことによって、自分を含めた世界の相対化、即ち、今まで確固として正しいと思っていた存在、それは理念であったり、目標であったりするかもしれないけど、の揺らぎが起こり始める。
その中では、
善悪の境界を含む、ありとあらゆる境界が溶けはじめ、それによって個々人につけられたラベル、例えば「あいつは悪い/いい奴だ」などのレッテルを破壊することができるようになるのだ。
だから「超人」とは言っても、
この世の中は超人と超人でない人に分けられると言いたいわけではないのです。
分けられないのであれば、万人超人「化」とはいえないと思うのだが…
愛が誰にもできるかどうかについては、
僕は愛が誰にでもできるということは否定したい。
勿論これはできる人とできる人がいるというわけではなく、愛は難しいが故に、およそできる人はいないだろう、ということです。
恐らく僕(というかフロム)があまりにも「愛」という言葉が安易に使われるが故に、そういう状況への危惧の現れなのでしょう。
恐らく愛が誰にでもできるという人と僕の間には、愛の定義が若干違うのだろうと思います。
僕は愛が誰にでもできるということは否定したい。
勿論これはできる人とできる人がいるというわけではなく、愛は難しいが故に、およそできる人はいないだろう、ということです。
恐らく僕(というかフロム)があまりにも「愛」という言葉が安易に使われるが故に、そういう状況への危惧の現れなのでしょう。
恐らく愛が誰にでもできるという人と僕の間には、愛の定義が若干違うのだろうと思います。
まず、愛が誰にでもできると言っているのは僕、こと塩屋である
したがって、べつに大した話でもないのではっきり言ってくれてよいのだが、定義をめぐって決定的に対立しているのは「我々」なのである
きみが否定しているのは「僕」である
さて、僕が「愛は誰にでもできる易しいことだ」と言うのは、素直に「愛の特権化」を防ぐためである
「論理的に」言えば、「誰にでもできる」の否定は「できない一部の人が存在する」である
愛が「誰にでもできる」を否定することは、論理の経済として、「できない一部の人が存在する」、すなわち愛の特権化を帰結する
愛が安易にささやかれて何が悪い?
ごく一部の人のみが語りうるという特権から享受しているのでなければ、人々が愛を語り合うことはみなにとって単によいことではないのか?
ここは筋が通らないと思う
ゆれという言葉を避けるなら、「誤り」があるとおもった