ハクロへ。「愛」をめぐって | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

まず、愛も思考も停止してはいけない、ということについて。

ぼくもおなじようなことをけっこうずっともやもやと考えてきています。

だからすごくふんふんとうなずきながら読んでいた。


「こうもり」とか


こうもりくんの弁明

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10701453817.html


「絶対に安住するな」とかね


よき日々のあとに

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10785727202.html



偏愛もまた博愛の一種であるというのはすごいことを言っているとおもう。

あんまり聞いたことがない言葉だからすごいとおもった。

でも、どうして偏愛が博愛の一種であるのかということがあんまりわからなかった。

博愛の一種であるべきだということはあったけれど。


わかんなかったけど、特殊なものと普遍なものが一致する、みたいなことはすごくキリスト教的・あるいは資本主義的な問題意識というか、興味をもった。

おもしろいっす。


「ある特殊なひとつのものを愛して一般のすべてのものを愛さないのは偏愛とは呼べない」というのはちょっと無理があるような。

まず、この論理の前段には「偏愛が博愛の一種である」ことがおかれている。

だから博愛でなければ偏愛ではないということだよね。

でも、偏愛とは字義のうえでは、偏った愛なのであって、むしろ「ある特殊なひとつのものを愛して一般のすべてのものを愛さない」ような愛のことを偏愛と呼んでいるような気がする。

したがって、「ある特殊なひとつのものを愛して一般のすべてのものを愛さない」愛という偏愛の定義と「博愛の一種である」という定義とが衝突しているのならむしろ(というかぼくの目には「当然」と映る)、耳慣れない後者の定義を検める必要があるように思う


「一人を無限に愛すること」と「すべての人を遍く愛すること」はほんとうに一致するか

無限の愛は無限であるだろう。

だが、「すべての人」は有限ではないか

深い一杯の皿に注がれた水と浅い多数の皿に注がれた水との水量が一致するという話であるとすると

無限の水と有限な水とではその量は一致しないようにおもう


博愛のひとつとしての偏愛の「実際」として一人を選んで愛することについて

あるひとりを特別に選ぶことの理由に、その人のもつなにかしらの性質を代入してはいけない

たんにたまたま選ぶことはあるとおもうし、無償の愛、見返りを求めない愛であることをいうならそれ以外の根拠を示してはいけない


愛の歴史的形態について

最初の自由恋愛って確か宮廷における不倫じゃなかったっけ?

あんまりくわしくないからえらそうなことはいえないのだけれども。


そもそも、一夫一婦的な結婚制度がすでに所有的関係ではないか。

エンゲージリング、契約というのは「無常」どころか「不変」の誓いだったようにおもう。


あと、無常は本邦古来の土着思想ではなくて、大陸から伝来した異教としての仏教によるものではないの?


こんなんです。