空手から得られたもの・これからの稽古で得たいもの | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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「空手の稽古から得られたもの・これからの空手の稽古で得たいもの」とは一言もいっていないんだよね。

これからの棒術の稽古で…とぼくはおもっています。

このタイトルのごまかしは我ながらなかなかクールだったぜ



はじめに、「大きな流れ」に身を委ねるように動いていくことを学んだ。突きや蹴りはどこまでも貫き通すように遠く大きく繰り出していく。目先の技を、一つの技を繰り出したらそれで終わるのではない。意識を遠くへと投じて、技を次々と連続して繰り出していく。途中で止まってしまうこと、流れが切れてしまうことは相手に制されてしまうことを意味する。一度身体運用の流れが切れてしまうと、再び動き始める起点が必要になる。起点には力がこもる、力がこもれば相手に悟られてしまう。したがって流れが切れることは即ち武道的な死を意味するのである。

流れに身を委ねるように技を繰り出していくことは主客二元論的な認識を退ける。「「私」が「あなた」に対して中段に追い突きを繰り出していきます」というのでは余りに遅い。「突く!」という一息のうちにすべての運動が乗っていく。また、連続して繰り出されていく技のそれぞれを分節的に把握しようとしてしまうと流れは切れてしまう。特に組み手において、どこまでが防御でどこからが反撃であるかということは判然としない。すべてが一体となった「大きな流れ」が武道的に最も活力のある身体運用であるとされる。

つぎに、私が本当に痛感させられたのは、ぎりぎりの場面においてこそ、声が重要であるということだ。声は体力や筋肉量に比べればずっと平等なものである。あらかじめすべてのひとに、均しく分配されている。声を出すことは誰にでもできることだろう。だが、誰にでも易しくできることはそのもたらすところが寡少であることを全く意味しない。疲労困憊しているとき、近視眼的になってしまっているとき、あるいはもっと実践的に組み手において負けそうなときに、内にこもらず外へと気を発散・表出していくことがどれだけ人間の助けとなるかを学んだ。

これからの稽古を通じて、もっと自由闊達に動いていけるようになりたい。自分の限界を自分で作って安住してしまうのではなくて、大きく柔らかく伸びやかに稽古を積んでいきたい。