大学には「普通の学生」は存在しない | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

物を売って儲けるにはふたつしか方法がないのではないかというお話をする


01:同じものをもっと安い値段で用意する

02:同じ値段でもっとよいものを売る


こうすればいっぱい買ってもらえるだろう

いっぱい買ってもらえばもうかる


01は「効率化」である

規格を統一する

無駄をなくす

仕事を分割する

機械化する

こだわりを捨てる

似て安いものにかえる

画素数をさげる

使い勝手のよいものにする

従順なものにする


02はイノベーションだ

新しい価値を付加して売ればよい

新しい価値をもたらすのは既存の規格を打ち破ることである


大学は市場ではない

大学の存在理由は科学の絶えざる更新である

イノベーションこそが大学の本義である

大学には小粒でつまんないやつがいくらいても直接には意味がない

規格を越えるようなわけわかんないやつが必要だ

でも、わけわかんないやつ「だけ」を選択的に入学させることは構造上不可能である

どいつが規格外にわけわかんないやつなのかということはそいつがまさに規格外的であるがゆえにマニュアル的に判断できないからである

だからつまんないやつも受け入れる

よくわからんやつも受け入れる

よくわからんやつも受け入れて育てる

それが反って近道であるからである

種を蒔いて水をやる

芽がでたりでなかったりする

葉が開きつぼみがふくらみ花が咲く

そうでもないことも多い

というかそうでないことのほうが多い

よくわからん下草のやつらを育てることは、はっきりいって無駄金を投じつづけることをいう

けれども、樹が生きつづけるためにはイノベーションが必要であるし、逆説的な表現であるけれども無駄金が必要なのである



大学とミスコン | sociologbook

http://sociologbook.net/?p=159


このお話を読んでぼくはたいへん説得された

大事な話であるから何度でも繰り返したい

大学はアジール(逃れの街)である


*


大学というのはなにか。

それは広場である。
それは街路である。
それは港街なんじゃないかなとおもう。
しばしばいろんなひとがいる。
目的地はちがう。けれども、いまこのとき、共にいることは同じくしている。

*


いいか

大学にはいろんなやつがいていい

大学に足を踏み入れるために必要な通行証はなにもない

どんなやつでも受け入れるべきだ

大学には人を退ける門なんかいらない

真に知性を活性化するものはエリーティズムではない

学歴のブランディングではない

たんに面白いことだ

わけがわからなくて愉快であたたくてまったりほっこりしていることだ

大学は受け入れることと許すこととなぐさめることを中心に回るべきなのだ


ぼくは普通の学生であることよりも、同時にいろんなダメなやつであることを選びたい

いんちきくさいブドウをやったり、酔っ払ってひとんちの玄関で吐いたり、フランス人にいじめられたり、プロジェクターの排熱で暖をとったり、一度も洗ってないから酸っぱいにおいのする硯でお習字をしたり、食堂の片隅で勉強会したり、1500円で3時間以上働いたり、喫茶店で牡蠣ドリアを食べたり、むきになって絵本にけちをつけたり、たくさんお酢を飲んだり、授業を全部切って昼から安酒をあおったりしたいのである


クソの役にさえ立たなくてもええじゃないか!

投資と利益の回収なんてつまんないこと言うな阿呆!

ごきげんに行こうぜ!