共同体と個ということの絡み合い | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

共同体と個ということを考えている


大学においては何をするべきか

好きなことをしていてはいけないのか

就活の切迫を気にするべきなのか

のんびりと生きてはいけないのか

「労働と余暇」として、空いた時間、なにかによって満たされるべきものとして時間を観念することは、人間を幸福にするのか


別に天地の人間(じんかん)にあらざるあり

碧山の論理

人が何を言おうと知ったこっちゃない

「苦しんでいる人がいて、きみはそれを座視するのか」という恫喝に対して「俺の知ったことか」と返す正直さは肯定されるべきである

僕は僕なのだ

「倫理の唯一の基礎は自己保存の努力である」


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法を地につけるという超人間的スケールをもつ難題をクリアするのは人間のどういった特権的な能力によるのか。

それは人間のやわらかさ、いわば回復力によるのではないかと私は思う。

やわらかさはしなやかな強さであるとともに損なわれやすさ、もろさでもあるという両面性をもつ。

深く傷ついた人間はどうやったら救われるのかということを考えたい。

それはまずはなぐさめられること、ゆるされること、受け入れられることによってだろう。

しかしいつまでもなぐさめられているわけには、ゆるしの声を聞いているわけには、安寧のなかでまどろんでいるわけにはいかないだろう。

傷ついた人もどこかのタイミングでもう一度立ち上がっておのれの膂力によって立たなくてはいけない。

それを可能にするものこそがやわらかさであるだろうと考えるのである。

柔らかさとは何か、先の通り、もろさでありしなやかさである。

それは具体的には誰しもが必ず持っている「そんなの知らないよ」という無責任な声のことではないか。

責任は天の声の命令によって強制されるものではない。

事実的にも権利的にも強制されたことはない。

なぜなら法理的公正はひとに押し付けることができても、人間的公正は、良心と惻隠の情と義侠心は天然自然に心のうちから湧いてくるべきものであるからだ。

人に言われてしかたなしにやることは続かない。

神なき時代には神なしで、弱く小さく邪悪で卑劣で無責任な人間が己自身によって責任・主体・自由を勝ち取らなければならない。

法を真に生きたものとするのはそうしたやわらかい人間のアクロバシーなのである。


法とはなんだろうか・その5・法を法たらしめるもの

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-11034509183.html


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別に天地の碧山にあらざるあり

人間の論理

他方で天から降って湧いたような不可能であるが不可避な倫理、超越的なものがある

多様な現象を可能にする仮象としての「中心」

英語のThere構文のようなものであるとぼくは理解している

それによってそこに意味を満たすべき空白が開かれるような「それ」


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ⅰ.詩の先生
「強いてあげれば、交通整理がわたしの役割だ(『ギャング』、144頁)。」
「詩の知識」でも「詩を書く方法」でもないものを教えること。これは「はじめに」で少し触れたが小論文を教える場合でも同じではないかとおもう。僕が生徒と話していたのは、小論文を書くための最終的な能力というのは自分自身の頭で考える力であるということである。自分で考える力なるものは如何にしたら涵養しうるか、それは書いて話して書くことである。他者にむかって話すということはおのれの価値観を他者に受け入れてもらえるように説得するという側面を必ずもつ。このうちおのれの価値観がポイントである。おのれの価値観はまさにそれがおのれの価値観であるがゆえに外部に求めることができない。自分自身のパーソナルな問題である。しかしそれを他者の説得という公的な問題に接続するとき「自分自身のことを他者の言葉によって語る」という「自分で考える力」の発露を私たちは確認するのである。


ⅱ.ギャング
問題はこちらである。ギャングとは一体どんな職業であるのか。ギャングについての記述以外にも本文を何度も丁寧に読み返したし自分でもできるだけ考えた。しかしよくわからなかった。これだけ頑張ってもわからないのであればわるいのは僕ではないということである(すごい言い草だ)。そうではなくて問いの立て方がすでに誤っているのではないか。つまりギャングは職業ではないのではないか。そもそも労働とは何か。歴史的地理的差異に関わらず労働一般に内包的な定義は「何らかの道具をもって生活のための直接間接的な必要物を産出すること(『近代の労働観』、15頁)」である。たしかにギャングが生産性に富むようにはみえない。
 さて、ではどうするか。僕と「さようなら、ギャングたち」はなぜギャングを職業であると取り違えたのかを問うのである。それは「でぶのギャング」が「ギャングであることを自由に選択」したと証言しているからである。つまりここでギャングとは二重の様態を指す。すなわちギャングとは死なない身体をもつような性質であると共に自由意志に基づいて選択されるべき職業でもあるのである。
 この項の最後に、ギャングの働きについてすこし考えよう。ギャングとはなにか。奪うものであり殺すものであり終わらせるものであり終わらないものである。それは終らせるのにそれ自身は終らないもの。僕にはすごくベタに、死であるように思えた。最初のギャングは「さようなら、ギャングたち」の前にキャラウェイが立ち去るのと引き換えにやってきたのである。ギャングが刈入れることでそこに無限の空白が生起する。そして詩人はその空白の上にはじめて種を蒔くのである。


(中略)


 ではなぜ私たちはギャングにはなれないのであろうか。職業としてのギャングになるためにはそれが自由意志によらなければならないにも関わらず、同時にそのつどすでに生きられている身体という自然性でもあるからである。ギャングはその根に受動性をもつからである。ギャングが刈入れるみぶりであるということはギャングを含めあらゆる(職業的)能動性であり精神の外化はギャング以後可能になるということである。ギャングこそは可能性をいちばん深いところで基礎づける可能性の余地をもたらす者としての不可能なのである。

*


「意味の無理」みたいなものを空間的に表象するならクラインの壺
時間的に表象するなら、「未だかつて一度も現在化したことのない過去」、紅莉栖であり戦後日本ではないか。
穿たれた穴、心もとない髄から超越的なものの光が覗いている。
光のうちから歩み去ったなにか、鏡に映らない影、言葉も届かない過剰。
おそらく「私」という生存の条件をなしている「不可能な夢」。
稽古のなかで、頭がぼおっとしてくることはある
辛いと思うことはある
辛いと思うこと、どうしてこんなことをしなくちゃならないんだろうという疑問には居場所が与えられなければならないとぼくはおもう
その疑問を抑圧したところで、もっとグロテスクな姿をとって回帰するだけではないか
端的にいえば、辞めちまうんじゃねえか
むしろ、どうしてこんなことをしなけりゃいけないんだという疑問がなければ、人は強くならないのではないか
けれども、同時に、もしももう一度生を生きなおすことのできたなら、どんなによいか、という「たしかにかつてどこかで出会ったはずなのに、それと思い出すことのできないかなしみ」の淡い光を、想う

届けばよいのに、とおもう

忘れてはいけない、安らいではいけないとおもう

返礼=シーニュ(報い・反応)がなくても、にも関わらず、と逆接するのは奴隷道徳だろうか

弱く誤った敗北のエーレント(みじめさ=流浪)を引き受けること

「贖わなければならない因子なき責任」


冬の入り口のどこまでも透き通った薄紫色の夕暮れなるもののやや重たいまぶた

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10693985279.html


ほんとうは、怖いよ

時間に限りのあるのも、死ぬほどわかってる

もっとずっと自由だったらいいんだ、とおもう

でも、やっぱり、あんまりうまくいかないね