冬の入り口のどこまでも透き通った薄紫色の夕暮れなるもののやや重たいまぶた | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

 誰かが二メートルばかり飛び上がって、叫び声を上げることを私は期待していなかったし、実際そんなことは起こらなかった。しかし世の中には叫び声に負けず劣らず雄弁な沈黙がある。私のまわりにはまさにそのような沈黙があった。密にして硬質な沈黙だ。キッチンから蛇口の水音が聞こえた。道路の方から、畳まれた新聞が投げ込まれるぱたんという鈍い音が耳に届いた。それから自転車で立ち去っていく新聞配達の少年の、軽い不正確な口笛が聞こえた。

(レイモンド・チャンドラー著、村上春樹訳、『ロング・グッドバイ』、軽装版、早川書房、2009年初版、522頁)


*


「雄弁な沈黙」。

たまたま、最近ぼくも同じようなことを考えた。
「雄弁な沈黙」というフレーズを思い浮かべた。


雄弁?いや、というよりも「饒舌な沈黙」というべきだろうか。


ぼくはそういう風に書き付けようと思った。

でも、まあいい。


もう一つ。


*


「いつかは失われるものにたいした意味はない。失われるべきものの栄光は真の栄光にあらず、てね」

「誰の言葉?」

「誰の言葉かは忘れたよ。でもまあそのとおりさ」

「世の中には失われないものがあるの?」

「あると信じるね。君も信じた方がいい」

「努力するわ」

「僕はあるいは楽観的すぎるかもしれない。でもそれほど馬鹿じゃない」

「知ってるわ」

「自慢してるわけじゃないが、その反対よりはずっといいと思ってる」

(村上春樹、『1973年のピンボール』、講談社文庫、2004年第1刷、147頁)


見えるもの、硬質なもの、構造的なもの、静的なもの、明るいところにあるもの、触知できるものはそれほど危険ではない。

問題は、そうではないものの方だ。

どこからともなく個人の内側に入り込んで、どんなにかゆくてもむしり取れないほど深く強く一体化してしまうような種類の、そぐわないもの、異質なもの。

それをぼくたちは習慣的に「霊」と呼ぶ。

でも本当に普遍的で人間を惹いて已まない「真なるもの」というのはこちらの方だ。


「「成熟性/有責性/現実性」とは全て同一の事態である。」とぼくは書いた。

「知行合一」を参照して、ここに知性を書き加えたい。

「真知はすなわち行いたる所以のものなり。行わざればこれを知というに足りず。未だ知りて行わざるものあらず。知りて行わざるは只これ未だ知らざるなり。」

知るとは行うということだ。

でも、知行合一は原理ではなく、マナーあるいは相対的な価値として、ぼくはとりあえず扱いたい。

知は収斂するか?

ぼくのようなひよっこではぜんぜんわからない。

知って、しかしなおかつ、行わない、という一群の人々がいる。

ぼくはそれをここで見た。

ぼくは彼らを(あるいはあなたを)必要なだけの知性がないとは思わない。

にも関わらずできない(ここがロドスなのだった)というのはすなわち、臆病だということだ。

ぼくとしては、ここではもうひとつ、重要な徳義のリストに「勇気」を付け加えよう。


恐らくみなさんはそうではなく、むしろぼくの方をデリカシーを欠いた反社会的な、野蛮な人間だと判断なされるだろう。

一向に構わない。ぼくはせめてタフぶらせてもらうよ。


「真なるもの」を語るということは面倒ごとをしょい込むということだ。

それはぼくにだって幾分はわかるよ。

でもある種の礼節を踏みにじる人間と、ぼくは友だちにはなれない。

沈黙?そりゃもっと悪質だろう。

風見鶏に一体何ができるって言うんだろうか。


みなさんが見たとおり、ぼくはある方向を持った思い上がりと侮りとうぬぼれを抱えている。

でも、ぼくという人間は、こうした要素も含めて、なにがどうなっているかわからないほど混線したひとつかみの傾向性の束のことなのだ。


ぼくは刻々と変わるだろう。完膚なきほど変わるだろう。

だが、確かに変わらないものがある。

それが好ましいかどうかはまた別の問題なのだ。