自由はあるのか | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

もたりけさんへ。


すいません、また引用だけです。


常識、屁理屈、言語道断、負け組み、オタク、KY、などなど。

その言葉の絶対的な定義なるものを僕はついぞ聞いたことがない。

これもまた自ずから明らかなんだそうだ。


カテゴライズ自体には、まあ、問題はない、と思うけれど、

ときに、そのカテゴリーに属することは無媒介的に~~だ、という

論理を生み、どうしてそのカテゴリーが~~なのか、という問いを

無効化するように「わからない奴は一生わからない、不治の病」

に化ける。で、それを正当化する権威はどこから来るのかといったら

マジョリティの集団圧力である。


そういう狂気が極まった最終形態が、アウシュビッツだ。

「あなたはユダヤ人である。したがって、連行され処刑される。」

(『常識至上主義は去れ。』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10295431556.html


えびよ、掘り返して悪い。


結局撤回してるぶぶんもあるんだけど、

内容ではなくて身振りというか、手つきというか、

そういうとこに注目ください。


□あやまらなければならないこと

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10319880485.html

解毒の為こちらも併用のこと。


もうひとつ。


かつてのその素朴な世界には、わかりやすさとあたたかさが満ちて

いたという。でも、その装置の舞台裏には、絶対にぬぐえない「外部」の

烙印を押された、逸脱者の排除が常にあった。


「啓蒙され尽くした大地は、勝ち誇った凶徴に輝いている。」


福祉国家の必然の帰結が、ヒロシマとナガサキなのだ。

生かす権力のもうひとつの顔は、殺す権力である。

規範の範囲の目盛りを操作することで、逸脱者を恣意的に作り出し、

それを殺す。


正しさは、「間違った人間」の死と引き換えに得られるものだった。

(『「わからないこと」を怖れる人々』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10348537868.html

ぼくが反発するのは、「絶対に否定できない正しさ」だ。

「お友だちとは仲良くしましょう」「分かち合いましょう」「みんなちがってみんないい」「清潔にしましょう」「ろうかははしるな」「差別はいけません」などなど。

基本的に、とりあえず反発します。


最初に手にとったのがニーチェ入門で、フーコーに惹かれたのは、わりと定型的(=陳腐)だと思うんだけどさ。

そいじゃ。