なぜ人を傷つけてはいけないのか | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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かじわらさんのご指摘を奇貨として、「人を傷つけるようなことをわざわざ声高に主張するな」は正しいか、ということを考えてみましょう。

まず、前半戦。


でも、一方で、人間はどんなものを見ても「不快な感情」を抱くことが出来る。
セクハラ批判はあってよい。でも「セクハラ批判批判」という立場もあってよい。水着の女の子のポスターを職場に貼ることはセクハラか?イエス。お茶汲みを強要することは?イエス。じゃあ挨拶は?イエス。
セクハラと親密なコミュニケーションとのあいだには量的な、アナログな差異しかない。だからぼくは反対に、あらゆる表現は潜在的に他者を傷つける可能性を内包していると考える。そうであれば否定的な表現も、説得の努力が付随する限りで認められるべきだと思う。
この問題はぼくの場合は「他人の趣味は否定できるか」という形で考えてます。

これを水増しして独立した文章をひとつ作ればいい…ってことだね。

むつかしいね。


ぼくが次のヒントになるんじゃないかと考えているのは、「他人の趣味は否定できるか」という問いです。

この趣味とは真・善・美の内、善を抜いた概念です。

ですから趣味が否定されることがあるとしたらたぶん善の立場から、ということになります。

その議論は特殊性⇔普遍性の軸ではなく、具体性⇔共通性の軸に基づいていなければなりません。

(『真っ暗な薄明かり』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10702711696.html


えーと、どこから説明すればいいんだろう。

うん、よし。


「人を傷つけるようなことをわざわざ声高に主張するな」は正しいでしょうか。

地域限定・期間限定のレフェランスである「常識」を引いても、正しいようですよね。

とりあえず、そこそこは正しいはずです。

ここまではいいですよね。

つまり、ぼくたちは最終的に「人を傷つけるようなことは言っちゃいけないよね」という「常識」を再承認することになるはずです。ただ、いくつかの留保(但し書き)が問題となるわけです。


「人を傷つけるようなことをわざわざ声高に主張するな」を二つに分けます。

むつかしい問いは分けて考えるのがよいです。

01:人を傷つけるようなことをわざわざ声高に主張してはいけないのはなぜでしょうか。

02:「人を傷つけるようなことをわざわざ声高に主張するな」が正しいとして、何を以って「それ」を「人を傷つけるようなこと」と判断するのか、その「度量衡」はどこにあるのか。


01、なぜ、としつこく問うことは結構大事な知的態度です。

なぜ、なぜ、と問い続けていくと、よくわからないけどこれこれという風になっているからです、という仮説的原理にたどり着くからです。

その主張自体が論破される条件を付記した仮説的原理を明示することが、科学性の担保であるとぼくは思います。


人を傷つけるようなことをわざわざ声高に主張してはいけないのは、人を傷つけることはいけないからです。

「人を傷つける主張」をわざわざ声高に主張すると人を傷つけます。

なぜならそれが人を傷つける主張だからです。(これは02で問題になることですね)


ではなぜ、人を傷つけてはいけないのか。

これはよい質問です。しかしよい質問にはいつも答えがない。

「なぜ人を傷つけてはいけないのか」という問いの、経験的な一つの極端な形は「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いでしょう。

この問いにはこれまでにもいろんなえらい人が挑戦して、みじめに打ちのめされています。

(みなさんもぜひ考えてみてください。)

ぼくが個人的に一番説得力を感じたのは、

「人を殺してはいけない理由は特にないのだ」と腹の底から信じるなら、なんで黙って殺さないのだろうか。「なんで殺しちゃいけないの?」と問う身振りのうちに、「なぜ人を殺してはいけないのか」という答えがあるのではないか、という答えです。

人を殺してはいけない、説明可能な理由は特にない。が、ないはずのものを信じないではいられないところに人間性の根拠がある。

これが限界ですね。


ところで、「人を傷つけてはいけない」という一見絶対否定できないような正しさも、べつに本当の「絶対」ではありません。


最高のもの、完全なものというのはすでに誤りであるということだ。

絶対の盾も、絶対の矛も存在しない。

矛盾、以前に、矛も盾もすでに誤りだということだ。

(『めも』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ、http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10707521996.html


「人を傷つけてはいけない」という主張だって、ちゃんと崩すことはできます。

問いの次数を一つ上げればよいのです。

「人を傷つけてはいけない」という言葉そのものが人を傷つけるような場面を考えてみましょう。

人を傷つけるような趣味を持っている人がいるとき、それ、よくないよ、やめろよ、と「頭ごなしに否定」すると、悪趣味なその人は傷つくかもしれない。

「人を傷つけてはいけない」という主張が無前提に正しいのならば、「人を傷つけてはいけない」と「言うこと」を通じて「人を傷つけてはいけない」ことは明らかでしょう。

ならば、「人を傷つけてはいけない」なんて言って人を傷つけることは、それ、よくないよ、やめろよ。

…なんてね。


02:「人を傷つけるようなことをわざわざ声高に主張するな」が正しいとして、何を以って「それ」を「人を傷つけるようなこと」と判断するのか、その「度量衡」はどこにあるのか。


さて、といいますか、問題はむしろこちらにあるわけです。

「傷つけること」とはハラスメントです。

どこまでがセクハラでどこからは親密なコミュニケーション(=思いやり!)なのか、その線引きはどこにあるのか誰が引くのか、そういう問いに変換して考えています。

長くなったのでまずはここまで。