「わからないこと」を怖れる人々 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

 近代においては「大きな物語」が機能していたとされる。

人間にはそれぞれ本分というものがあって、清く正しく、

節度と用量用法を守って、その姿にあるべく求められた。


大文字の正義があり、家父長制があり、お見合いがあり、

身分があり、ロボトミー手術があり、アウシュビッツがあり、

ヒロシマとナガサキがあった。


戦争が政治の延長なのではなくて、政治が戦争の延長なのだ。


 だけれど、大きな物語は、ベルリンの壁と共に崩れ落ちていく

ことになる。

人々が、その本質的な無根拠性と、完成の不可能性、そして、

何よりも、人間を幸せにできないということに気づいてしまったから。


かつてのその素朴な世界には、わかりやすさとあたたかさが満ちて

いたという。でも、その装置の舞台裏には、絶対にぬぐえない「外部」の

烙印を押された、逸脱者の排除が常にあった。


「啓蒙され尽くした大地は、勝ち誇った凶徴に輝いている。」


福祉国家の必然の帰結が、ヒロシマとナガサキなのだ。

生かす権力のもうひとつの顔は、殺す権力である。

規範の範囲の目盛りを操作することで、逸脱者を恣意的に作り出し、

それを殺す。


正しさは、「間違った人間」の死と引き換えに得られるものだった。


 大きな物語を失った人々は、大いに困ることになった。それは、

同時に規範と、「その規範に適応すること=成熟」を失ったからだ。

人々には「正しさ」というものがわからなくなった。正しさがわからないと

いうことは、愛すべき「私」が、間違えうるということだ。

特に、殺人の正当化が難しくなるということだ。


間違えたら、人を傷つけるから嫌だ。そして、そんなことよりも、まず、

「私」が間違って傷つけられたくない。


かくして、「引きこもり」という思想が生まれた。

あえては行為せず。「間違えるくらいなら、何もしない」という倫理だった。


 でも、人間は行為しないではいられない。人間は理性的精神である

以前に、物理的身体をもつのだから。行為の正当性は、主張の内在的

論理の正しさによっては十分に保証されない。

その正しさは蓋然的でしかなく、人を殺すロジックとしてはいささか

脆弱だから。


この正当な行為の不可能性を巡る議論は、政治的闘争、あるいは闘争的

政治を制した者が、(仮構の)正当性を保持することができるという、

「現実的」な決着をみる。剥き出しの政治的覇権主義。勝者が正しい。


そうした現実から目を背け続けた「引きこもり」は、95年に破綻をみることに

なった。


1995/03/20

引きこもりの思想の鬼子、オウム心理教は、世界を救うべく、営団地下鉄で

サリンを撒いた。でも、もちろん、世界が救われることはなかった。

12人が死に、多くの人に重軽傷を負わせただけだった。


はじめから袋小路でしかなかった引きこもりの思想の、不可能性が顕わに

なった。


11/09/2001

その、映画的表現技法としてはあまりにも陳腐な映像は、人々を、さらなる

思考停止へと駆り立てた。


そこには、パワーポリティクスの、濁った渦だけがあった。

イスラム教原理主義過激派のテロルと、アメリカのアフガン侵攻との間

には、程度の差しかない。


War on Terror


出口のないサヴァイヴァルが始まった。


* * *


情報ネットのインフラが発達し、パルスとなった意思が地球を覆っても、

そこにはわからないことを怖れる人々しかいない*01


実証的で合理的で定量的で機械論的な科学によって全てが証明され

尽されると信じて疑わない人。


優しくて温かで排他的で閉鎖的で歴史的でスピリチュアルな

共同体幻想に回帰する人。


シニカルな嗤いと偶数批判に終始し、積極的で建設的な「主張」をしたこと

がなく、自らのレゾン・デートルを彼の忌み嫌うところであるはずの

恋愛至上主義に求め、あらかじめ埋められるべく用意された欠損を抱える

白痴的美少女の所有によって充当する人。


彼らには共通する要素がある。

それは、晩期大衆消費社会のエートス、ジョニーイズムだ*02


消費者マインドは、わからないことを存在しないものだと見なす。

彼らの目に映る全ては消費の対象であり、彼らの欲望を満たすためだけに

存在する。


彼らは嗤い、貪り、殺す。


世界は「つるつるとした当たり前」に覆われ、簡単明瞭であり、面倒な

「正しさ」なんて全く必要なく、気持ちの良いことしか存在しないことに

なっている。


わからないことなんて、何一つない。

人生なんて簡単すぎて下らない限りだ。


* * *


ようこそ、鳥の国へ*03



*01:わかりにくいかもしれないけれど、僕はわからなさを怖れることを

全面否定していない。必ずしも悪いことではないからね。

でも、わからないことを殺してはいけないと思う。わからなさを引き受ける

ことが、自分で考えるということだ。自分で考えることがデインジャーに

耐えうる骨格となる。『I'LL FOLLOW THE SUN』で僕が必要を痛感した

「骨と筋肉」と同じものである。

□来る

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10101491699.html

□I'LL FOLLOW THE SUN

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10148240478.html


*02:フロイト先生も爆笑だぜ。一人で爆笑はできないけどな。僕は、

きれーなおねえさんにも真顔で言い放つ。

「あなたのそれはジョニーイズムです。ゴミ箱を孕ませるつもりですか?」


*03:「鳥の国」とは、他でもなくこの世界のことだったんだね。

種明かしが早すぎたかもしれないけれど、「わからないこと」を黙殺していた

人は、反省しろとは言わないけれど、せめて自覚的であるべきだと思うよ。

これは、個人の感想に基づく、忠告に過ぎないけれどね。

 それから、どうやってこの状況をひっくり返すかということだけれど、

それは、鳥の国の内部にいる限りでは見えてこない。鳥の国から出た人は

いないけれど、これから先、内にいながらにして外に立つ、ということを

試みてみることにしよう。

 あ、そうだ。「頭巾」が何のアナロジーなのか考えてみてよ。

□鳥の国

http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10346191479.html