この文章は『なぜ人を傷つけてはいけないのか』の続きです。
先にあちらを読んでいただいた方がわかりやすいかと思います。
『なぜ人を傷つけてはいけないのか』、帰ってきたKOIするやんごとなきどーすかΩ
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10709727621.html
さて、どこまでがセクハラでどこからは親密なコミュニケーションなのか、その線引きはどこにあるのか誰が引くのか、を考えてみようということになりました。
このことを考えればきっと「人を傷つける表現」はどう扱われるべきかということもわかるのではないか、と直感したのでした。
一昔前まで、日本でも職場におけるおっさんの上司から女性部下へのセクハラってホントにひどかったんです。
今も女性の権利を拡大しようという運動はさまざまに続けられていると思いますけど、これでも昔に比べればだいぶマシになったようです。
昔の女の人は、セクハラを受けても泣き寝入りするしかなかった。
「セクハラを受けても泣き寝入りするしかない」って絶対おかしいじゃないですか。
そういうとき、セクハラを受けたんです、と「良心的」で「社会的」で「まとも」な人に相談しても、「いや、きみ、それはしかたがないというものだよ。上司は偉い、部下はそれに従う。男は偉い、女は従う。社内の潤滑なコミュニケーションを促進することは社のため、ひいては国のためになる。ちょっとくらいオイタがあっても女は目をつむらなくちゃ。いやならどこへでも行けばいい。でも上司に逆らい男に逆らうようなまともじゃない女なんてどこも引き取ってはくれないとおもうけどね。それがふつうじゃないか。それがどうしたんだろうってみんなぴんと来ないと思うぜ。それはそういうものなんだよ」と返されたわけです。
「それがどうした、そういうものだ」という言葉がろくでもない方向に作用していますね。
「まとも」な人がぜんぜん助けにならなかったし、「それはそういうものでしょ」という言葉が道をふさいでいたということがあった。
まず、そういう原状況が存在したことはきっちり確認しておきましょう。
次です。
フェミニズム運動がすごく頑張ったおかげで、状況はだいぶ改善されつつあります。
「セクハラ批判」は市民権を得ました。
法的整備も、まだまだとはいえ少しずつ改善されています。
昔は、「セクハラ批判」は社会的・常識的に判断すると「よくないこと」だったわけです。
ホントにひどい話だとおもうけど、でもそうなっていた。
それが今は「セクハラ批判」は「よいこと」になりました。
ここではじめの問題に戻ります。
どこまでがセクハラでどこからは親密なコミュニケーション(=思いやり!)なのか、その線引きはどこにあるのか誰が引くのか。
これはそう簡単な問題ではありません。
「それ」が「セクハラ」なのか、それとも「親密な挨拶」なのか、ということの線引きは、ひとまずは「被害者」が決めるということになっています。
これはたぶん「最も虐げられたものが最も明察的である」という左翼的知性論の伝統を踏襲しているのだと思いますけど、この論拠ははっきり言えば誤りです。
虐げられていることと明察であることとのあいだには必ずしも相関関係はありません。
まっ、とりあえず仮に、セクハラに該当するか否かは被害者が決定することにしたとして、そのあとどうなるかを考えてみましょう。
それはセクハラに当たるのか当たらないのかを決定するというのは、例えば「のちに被疑者となる男性上司」が「被害者になる女性部下」のお尻を触った、という「出来事」がまずあって、それからその出来事の、セクハラか否かという「意味」を誰かが決定するということです。
つまり、「出来事」という「テクスト」と「セクハラか否か」という「意味」と「意味を決定する」・「読者」の関係が問題になっているわけです。
したがって、この問題にはテクスト論が有効だとぼくは考えます。
ここではロラン・バルトのテクスト理論を援用することにしましょう。
バルト先生、テクストの意味は誰が決定するんでしょうか。
先にぼくはこちらに「読者」がいて、あちらに「テクスト」があって、よーいどんで取っ組み合いを始めるんです、というような口ぶりで説明をしました。
しかしバルトは、テクストと読者は互いに自立しているわけではないのだと説きます。
たとえばぼくたちは「桃太郎」を読むとき、桃太郎に感情移入して、苦労の末に鬼をやっつけて宝を手に入れるところで歓声を上げますよね。
では逆に、同じ桃太郎の話を今度は鬼の側から語るのを聞いたらどう反応するでしょうか。
昔むかし、きれいな水と豊かな土に恵まれた村に住む人間から、「鬼」と呼ばれ迫害され僻地へと追われたために細々と暮らしていた人々がいました。
彼ら「鬼の里」の人々は養分の乏しい土地と寒冷な気候のために来る日も来る日もつらい農作業をする傍ら、先祖代々に伝わる「宝」を手入れする仕事を唯一の誇りとしていました。
しかし、ある嵐の晩、桃太郎と名乗る生意気なクソがきが凶暴な犬と狡猾な山猿と不吉な声で鳴く雉を従えて、静かな「鬼の里」に攻め入ってきたのです。
「鬼の里」の住人は気性の優しいおだやかな人ばかりなので、あっという間に屈強な桃太郎軍にねじふせられてしまいました。
「宝をよこせ」
鼻息荒く、目を真っ赤に充血させた桃太郎はそれしか言いません。
「わかった。宝はくれてやる。だから里の人間には手を出さないでくれ。後生だ」
里長は屈辱に涙を流しながら「宝」を管理している建物を指差しました。
桃太郎たちは「宝」を船に積み、村の建物に火を放ちました。
「わっはっは。天網恢恢疎にして漏らさず。これはお前ら鬼どもの悪逆非道な行いに対する報いだ。正義は絶対に負けないのだ」
桃太郎は満足そうに高笑いし、引き上げていきました。
「おとーちゃん…。だいじな宝を奪われてしまって、よかったの?」
「ああ、いいんだ。やっとわかったよ、私が間違っていたんだ。たしかに私たちは何もかも失った。でも私にはお前たちがいるよ。家族や友人が本当の「宝」だったんだよ」
おしまい
うぅ…ええ話や!家族や友人が本当の「宝」!!
で、なんだっけ。
ああ、そうそう。
このように、ぼくたちはテクストに向き合うはじめから確固とした見方を持っているのではないのです。
そうではなく、テクストのほうがぼくたちをそのテクストを読むことができる主体へと形成します。
テクストと読者は互いに基礎づけあい、互いに深め合います。
次に、「テクストの本当の意味」という概念を検討してみましょう。
ぼくたちはよく小説の作者に向って、「あの、これは一体どういうメッセージを伝える為にかかれたんでしょうか?」と問いかけます。
そして今も、ぼくは「鬼から見た桃太郎」を書いたわけですが、「あれはつまり何が言いたかったんですか」と聞かれたところで「ええと、お金がすべてではないのだ、本当に大事なのは家族であり友人なのだよってことです」と答えるでしょうか?
まさか。
作者にも、なんのためにそんなことを書いたの、ということはよくわかんないんです。
「テクストの意味を決定するのは作者ではない」
これは非常に重要な知見です。
今日でもいまだに多くの人が勘違いしていますが、作者は「テクストの本当の意味」を決定することはできないんですよ。
ではどうするんでしょうか。
作者に問い合わせてもテクストの意味がわからないのなら、どうしたらいいんでしょう。
バルトはこう答えました。
「テクストというのは織り上げられたものという意味なのだよ。これまで人々はこの織物を、そのうしろになにか隠された意味を潜ませた覆いのようなものだとおもいこんできた。これからわたしたちはこの織物を生成的なものだと考えることにしようと思う。つまりテクストは終らない絡み合いを通じて自らを生成する、織り上げていくのだという考えだ。」
生成的というのは「うつりゆくこと」だと考えると分りやすいと思います。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
バルトは起点と終点を立てないのです。
「作者によって予め決定されたテクストの真なる意味」という考え方を放棄すると、テクストの意味は読者の数だけ存在することになります。
さて、戻りましょう。
テクストの意味は作者が決定するのでも、特定の読者が決定するのでもない。
それがセクハラか否かという出来事の意味は、加害者が「私がセクハラの意図がなかったといえばなかったんだ、たんにたまたま手が触れただけですよ」と言って決定するのでもないし、被害者が「あたしがセクハラだと感じたんだからなにがなんでもそれはセクハラなのよ」といって決定するのでもない。
誰にとっても正しい出来事の本当の意味はありません。
でも、出来事の意味は一意的に決定することができないのだとすると、何がよいことで、何が悪いことなのかという線引きができないことになってしまいます。
「たしかに私はきみのお尻をさわったし、それはセクハラといえばセクハラかもしれないけれどセクハラではないといえばセクハラではないのだから悪くないといえば悪くない」と開き直られたらはじめに戻ってしまいます。
セクハラはやっぱり悪い。
このへんのバランス感覚がだいじなのです。
わるいこととよいことはデジタルにずばっと割ることができないという宙ぶらりんの気持ち悪さに耐えないといけないのです。
セクハラは悪い。悪いけど、専一的に「虐げられた被害者」だけが出来事の意味を決定する資格を有するのだという主張にはぼくは与しません。
確かに、テクストは万人に開かれている生成的なものですから、どんな出来事についてもあなたがその意味を自ら決定することができるのです。
あなたはどんな言葉にも傷つくことができます。
「この文学部ッ!」
「この「うどんよりそば派」めっ!」
「へもらんちょ!!」
「つまり、あなたは私をきずつけたいのだ」という解釈を、あなたはあらゆる表現に向けることが出来ます。
だからこそ、あなたはいくらかは自由な解釈を自制しなければならないのです。
「セクハラ批判」は大変に切れ味の鋭い最強のカードです。
たしかに「セクハラはよくない」というのは否定できない正しさです。
しかし、不敗の構造はすぐに腐敗の構造に転化します。
「あ、こっち見んな。セクハラ!」
ひどい、減るものじゃないだろ。おっぱいを凝視して何が悪い。
と、ぼくは「「セクハラ批判」批判」を大変熱を込めて擁護するわけですが、原状況における「それはそういうものだ」という固定性が人間の自由を阻害したことを思い起こしてください。
「絶対に正しい立場」をとった人間は必勝です。
「断罪者のポジション」は「死神のポジション」なのです。
*
さて、「人を傷つけるようなことをわざわざ声高に主張するな」は正しいか、ということでしたね。
正しいです。正しすぎるくらい正しいです。
でも、だからある程度は自制されなければなりません。
正しすぎる意見は「どんなものでも貫ける矛」のようなものです。
人を傷つけるようなことを言うのはよくないね。
でも、あんまり厳しく「正しすぎる意見」を振り回すのもいけない。
「おっぱいは瞥見すべきものなり、熟視すべきものにあらず」
わかった、ぼくはおっぱいをじろじろ見ない。
ちらちら見るに留めることにする。
このくらいで手打ち、ということで一つ。